第八話 5
沢登小五郎は、山本道代の事務所を後にした後、豆太郎を連れ、河川敷を散歩していた。歩きながら、子供の頃を思い出していた。
女番長に跳び蹴りされ、川へ落ちた唐吉を救い出して自分もずぶ濡れになったこと、道代に暴言を吐いた唐吉と佐助が喧嘩になり自分も唐吉を責めたこと、唐吉とマツ婆ちゃんと三人でお団子をいつも食べていたこと、子供時代の沢山の思い出が脳裏に蘇っていた。
子供時代の様々なことを思い出しながら、大学のキャンパスへ辿り着き、今度は、亡くなった妻のあおいと出会った頃の頃のことを思い出していた。
大学の講義は、美術部と音楽部の学生が入り混じって受ける講義が多々あるが、その中で時々出会う来栖あおいに、僕は何故か惹かれていた。美術部の学生は、ファッションセンス抜群な者も中にはいるが、モサかったり、汚なかったり、異常にこだわりのある格好をしていたりと個性的な学生が多いのだが、音楽部は美術部と違い、上流階級の出身ですか?というような上品な格好をしている学生が多かった。
その中で、音楽部ピアノ科であるにも関わらず、来栖あおいは、いつもショートカットにTシャツにジーパンというボーイッシュないで立ちだった。しかも、数人で固まって楽しそうにしている女子が多い中、彼女はいつも一人でポツンと講義を受けていた。子供時代の自分の境遇が孤独だったから、同じような境遇に見えた彼女に僕は特に惹かれたのかもしれない。しかし、原因は他にもあった。偶々見かけた音楽堂での普段とは全く違う優雅な彼女の演奏に、僕は打ちのめされていたのである。
今考えれば、ストーカーのようなことをしていたと思うのだが、僕は、来栖あおいの持ち物も注意深く観察するようになった。彼女は、富士山やエベレストの写真集や、キャンプ用品の通販カタログを持ち歩いていたりした。僕は、もしかしたらと思い、大学のワンダーフォーゲル部を覗いてみた。すると、部室に来栖あおいがいるのを発見し、僕は即座にワンダーフォーゲル部に入部した。
しかし、それからが長かった。晩熟な自分は、来栖あおいに講義室でも部室でも、一言も話し掛けられないのである。それをどういう訳か、動物的感覚で嗅ぎつけた唐吉が、当時、付き合っていた山本道代と共に、ワンダーフォーゲル部のハイキングに参加し、来栖あおいと一気に仲良くなって、自分とあおいの仲を取り持ってくれた。
あおいはいつも言っていた、「唐吉さんて、本当の意味での変人だと思うけれど、でも心はあったかい人だよね。彼のおかげで私達は幸せになれたんだもの。感謝しなくちゃね」と。僕も彼女と同意見だった。
結婚してからのあおいとの生活はいつも楽しかった。僕もあおいも天才肌ではなく、鍛錬によって才能が蓄積されるタイプだったので、小さな規模でも仕事の依頼が来るたびに、「すごい! 良かったね!」といつも大げさにお互いを励まし支え合っていた。そのせいか、僕もあおいも徐々に頭角を現し始め、僕はとうとう大きな賞を貰うことになり、あおいは大きなホールでのコンサートの依頼が来るようになっていた。彼女との結婚生活は、これ以上望むことはないと思うくらい、本当に幸せだった。
そんな時、もっと幸せなことが起こった。結婚十年目にして、あおいが妊娠したのである。僕は、彼女との生活に満足していたから、子供のいない生活でも何ら不満はなかった。しかし、あおいはずっと悩んでいた。彼女は産婦人科に通い、不妊治療をしていた。その成果が実り、ようやく子供を授かった時、あおいは本当に嬉しそうだった。僕も、そんな彼女を見ているのが嬉しかった。
しかし、不幸は突然訪れた。大成功させたコンサートの翌日、あおいは交通事故に遭い、突然、僕の前からいなくなった。あの日のあおいは、妙に明るかったのを覚えている。
「昨日のコンサートは凄かったな! 総立ちだったもんな。しかもアンコールが三回だなんて」
「だって頑張ったもん。しばらく産休に入るから、特に頑張ったんだよ」
「そうか、産んだ後、子育てもあるしな」
「うん」
「いや、聞いてて鳥肌が立ったよ。あおいは凄かったんだな」
「今頃分かったか」
「うん」
「じゃ、ちょっと、ご褒美に今からコンビニに行ってケーキを買ってくる」
「はぁ?」
「期間限定品なんだよ」
「じゃ、俺が行くよ」
「いいよ。だって、その作品、明日までに仕上げなくちゃいけないんでしょ?」
「うん、まぁそうだけど」
「妊婦もね、じっとしてちゃ駄目なんだよ。適度な運動はしなきゃ駄目なの」
「食べ過ぎも良くないんだろ?」
「そうですけど、今日くらいいいじゃない!」
「はははは、そうだな。今日くらいいいよ」
「じゃ、行ってくる!」
そう言って、あおいは笑顔で真夜中のコンビニに一人で向かい、二度と帰っては来なかった。
自分の人生で、この時ほど後悔したことはなかった。
何故、自分はあおいを一人で行かせてしまったのだろう?
あおいじゃなくて、自分が行くべきだったのではないか?
いや、せめて自分も一緒に行くべきだった!
一緒にいれば、彼女を守れたはずなのに!
唐吉は、執念で轢き逃げした男を探し出し、飲酒運転だったことを突き止め、立件してくれた。なんだかんだ言っても、僕にとって唐吉は、唯一の親友だった。けれども、妻と子供を失った喪失感は消えることはなかった。何度も何度も、何年も何年も、僕は自分を責め続けた。




