第四話 2
三日後、僕は白石剛宅にいた。依頼の内容を聞くためにである。白石剛は、およそ四十年間企業に勤め、八年前に退職した初老の紳士だった。白石剛宅には、末期癌で自宅療養している妻の白石小夜子がいて、香月由美という通いの看護師に看護して貰っている。とはいえ、夫の白石剛は自宅を長時間留守に出来ないので、こちらのほうから出向いた。
「初めまして、いや、お久しぶりかな。実はね、君が赤ちゃんの頃に一回会ってるんだよ。でも生まれたてだったから、覚えてはいないか?」
「?」
「いや、ごめん、ごめん。びっくりしたかい? 実はね、君のお母さんと妻は、高校の同級生でね、若い頃に非常に仲良くさせて貰ってたんだよ」
「そうだったんですか……」
「君のお母さんと小夜子は、本当に仲の良い二人だった。どこへ行くにもいつも二人で行動していてね。見ていてこっちも羨ましくなるほどだった」
「そうだったんですね」
「本木さんのレストランには、昔から何度かお邪魔させて貰ってたんだが、あのレストランには縁があってね、君のお父さんもご縁があるようだが、実は僕達夫婦も初めて出会った思い出深い場所でもあるんだよ。この間、久しぶりに一人でレストランを訪れていたら、偶々本木さんがいらっしゃって、私のほうから声を掛けさせて貰ったんだ。そしたら、昔の話で盛り上がって、君の話も出たというわけだ。調査事務所をされているそうだが、仕事を依頼したいというより、本当は静枝さんの息子さんに会いたくなったというのが本音かな。小夜子も君に会えるのを本当に楽しみにしていたよ」
白石剛は、そう言いながら、妻の小夜子が寝ている部屋へ案内してくれた。白石小夜子は酸素ボンベや痛み止めの点滴に繋がれていた。前はもっとふっくらしていただろう頬は痩せこけ、見ているのが痛々しかった。けれども、白石小夜子は、僕が部屋に入ると、満面の笑みを湛えた。そして、「唐吉君、来てくれて嬉しいわ!」と言った。その彼女の言葉の中に、母親が持つ無償の愛のようなものが感じられ、僕は胸がいっぱいになった。それは、母が亡くなって以来、初めて経験するような感情だった。
白石小夜子は、「あんな小さかった唐吉君がこんなに大きくなって! もう本当に会えて嬉しいわ! 今日はね、唐吉君にお願いがあって来て貰ったの。無理なお願いだと思うの。でも、出来ることなら叶えて欲しい。静枝ちゃんと私と剛さんの想い出が詰まってるお願いなの。私の最後の素敵な想い出にしたいから」
白石小夜子が興奮してそう言うと、急に咳込み、看護師の香月由美は、慌てて酸素の濃度を上げた。白石剛は呆れ顔で「もう、そんなに一気に喋るからだよ。後は僕が唐吉君に話しておくから」と言うと、白石小夜子は手をひらひらさせて、「お願い」と一言言った。
白石剛に隣の部屋に案内され、僕は彼から依頼の内容を聞かされた。
なんでも、母と白井石小夜子は、世界的に有名なイギリスのロックバンド、キングスクラウンの大ファンで、二人とも中学生の頃から大ファンだった。高校ではそのことがきっかけで二人は親しく付き合うようになったが、今度は二人でキングスクラウンの追っかけを始める始末。キングスクラウンが来日する度に、二人は地方公演さえも出かけて、ホテルの前で出待ちもした。ただし、二人はメンバーに迷惑を掛けてはいけないとは思っていたらしく、双眼鏡を片手に遠くから眺めるだけだった。それなのに、入ったラーメン屋でメンバーが後から偶然入ってくるという事態に遭遇し、自分達はあなた方の大ファンだと告白したところ、ラーメンを奢ってもらうような体験もした。白石剛もキングスクラウンの大ファンで、それがきっかけで知り合って結婚することにもなった。そんな思い出深いキングスクラウンの二十年ぶりの来日公演が、後十日後に迫っている。白石小夜子は、自分は病気だからと諦めて、チケットを購入していなかったが、でも、やはりその公演に行けないのは心残りである、自分の命もどのくらい持つか分からないが、キングスクラウンの来日公演も、彼らの年齢的に最後の公演になるだろう、なんとかして、チケットを入手して公演に行けるようにして貰いたい、というのが依頼内容だった。
白石剛から聞かされた若かりし頃の母は、自分と違ってごく普通の女子高生で、母なのに可愛くも思え、楽しい青春時代を過ごしていたという事実が僕を安堵させていた。僕は自分で、母のことを嫌っていると思っていた。しかし、宮崎幸彦や本木勝義、白石剛から母のことを聞かされ、母に対する頑な感情が溶解していくのを感じていた。
僕は、白石夫妻に「是非、やらせてください」とお願いし、白石宅を後にした。