第一話 3
父と母がいなくなった後、僕は祖父、米澤唐左衛門に育てられた。「旗本の家に生まれた男ならば誇りを持て」が祖父の口癖で、スポーツも勉強も手抜きは一切ご法度だった。祖母の米澤はる子は、僕が三歳の時に既に他界しており、他に家にいる者というと、森山熊三という執事と、身の回りの世話をする中年のメイド二人だった。そして、祖父の弟の娘、父の従妹の米澤綾子という叔母が、年老いた祖父を気遣い、時々訪ねて来ていた。
とにかく、祖父と二人で家にいると、広い屋敷にも関わらず息苦しくてたまらないので、僕はしょっちゅう家を抜け出して、幼馴染みの沢登小五郎の家に逃げ込んだ。両親が離婚しており、母一人子一人の小五郎の家は、日中家には誰も人がおらず、随分と居心地が良かった。僕は、常に小五郎と連れ立って、毎日小学校に登下校した。
沢登小五郎は心の拠り所だったが、小五郎がいるから、万事がうまく行っていたわけではない。僕は気付けばいつもトラブルの渦中にいた。
「お前さ、なんでいっつもそうなんだよ! 道代は、お前に親切にしただけだろ!」
僕は、クラスの女番長に絡まれていた。下校途中に通る河原でいちゃもんを付けられていた。
「アイツは、親切にお前の分の給食のスプーンを取って、お盆に載せてやっただけだろ? それなのになんでお前は拒否ったんだよ? おまけに、ブスは余計なことをするなと言ってたな」
「俺は、女が嫌いなんだよ」
「はぁ? それとこれとは別の話だろ。お前、正気か?」
「俺はいつも正気だ。女なんかみんな一緒だ。腹黒くて薄汚い」
僕がそう言った瞬間、女番長に「なんだとぉ! お前のほうが薄汚いんだよ!」と叫ばれ、跳び蹴りされて、ランドセルを背負ったまま川に突き落とされたのだった。
横にいた沢登小五郎は、呆然とその様子を見ていただけだった。
その後、僕は小五郎に助け出されて、ずぶ濡れのままトボトボと通りを歩いていた。彼は、「あれは唐吉のほうが悪いと僕も思う」と言った。僕は、彼にそう言われても無言だった。しかし、小五郎は続けた。
「しかも、唐吉って、山本さんにだけ、いっつも余計なことを言うよね。ブスだとか、男たらしだとか」
「事実だからそう言っただけだ」
「でも、他の女子には、『どけっ』とか『触るな』とか言うけど、あんなに酷いことは言わないじゃん。なんで?」
「さぁね」
何故そうなるのか、実は僕にもよく分かっていなかった。自分の素行はちっとも直せないくせに、自分でも自分が悪いとだけは分かっていた。そんな自分をどこかで恥じていた。
「小五郎、ずっと友達いてくれるか?」
「いいよ」
気付けば、小五郎とこんな会話をしていた。
マツ婆ちゃんの団子屋の前を通りかかった時、いつものようにマツ婆ちゃんは僕達が通るのを待ち構えていて、「あれま! 今日はどうしたんだい!」と言いながら、僕達を自宅兼団子屋の中に引き入れて、風呂に入らせてくれた。
「マツ婆ちゃんは女だよね?」と小五郎が僕にこっそり耳打ちすると、「婆ちゃんだから、女じゃないよ」と返した。小五郎はクスっと笑った。
「要するに、お前は頭が良いくせに、女が絡んでくると判断が鈍るわけだ。だったら、答えは簡単だ」
「え、簡単なの? 唐吉は僕が知ってる限り、女の子とまともに話したことがないよ」
僕の代わりに小五郎が答えた。
「簡単だよ。相手を女だと思わなきゃいい」
「えーっ、そんなの無理だよ!」
僕と小五郎が同時に叫んだ。
「女だと思わずに、ただの人間かロボットだと思えばいいんだよ」
僕は、そんなの出来るわけないじゃんと思いながらも「婆ちゃんが言うことだから、そう思うようにしてみる」と答えた。
「あ、それとね、あんたら、明日は河原じゃなくて違う道から学校へ行こうとしてるんだろうけど、やっぱり河原を通ったほうがいい。あの女番長は、明日は河原を通らないから。しばらくの間、一対一にならないほうがいいからね」
「わかった。ありがとう」
その後、いつものように、店の売れ残りの団子とほうじ茶を出して貰い、僕と小五郎は小腹を満たした。マツ婆ちゃんの団子は美味い。ほうじ茶も美味い。その辺の駄菓子やスナック菓子より、僕と小五郎は、マツ婆ちゃんの団子が何よりも好きだった。
マツ婆ちゃんは、なんでも分かるらしく、僕と小五郎は毎日当たり前のように、マツ婆ちゃんに助けられた。