第一話 2
あの出来事があってから、僕の生活は一変した。一変したが、僕なりに乗り越えたつもりだった。しかし、そう簡単にはいかなかった。
今僕は、検察官として、事件の被疑者を起訴し裁判に臨んでいた。どう考えても犯人は、あの女しか考えられなかった。自分の欲望のために、男に媚び育児放棄し、遊び歩いた挙句、まだ二歳だった長男を死なせていた。
しかし、あの国選弁護人の女弁護士、山本道代は、新たな証拠を提出した。事件があったその日、被告人の笹川カオリは遊び歩いていたのではなく、職場であるバーで働いており、ベビーシッターが寝込んだ隙に、よちよち歩きだった長男が誤って、水を張った浴槽に転落した事故による死だと主張した。
けれども、あの女には遊び癖があり、子供だけを家に放置し、客の男と遊び歩いているのを過去に目撃されている。一度や二度ではない。四六時中目撃されているのである。それなのに、長男が死んだその日は、偶々店で働いていたと言うのである。
裁判官、加賀美佐助は、馬鹿にしたように僕を蔑んだ目で見、鼻で笑うと、逆転無罪を言い放った。
「だから、なんでこんな子供みたいなミスを犯したんだ? 頭脳明晰ともあろう君が……」
部長が僕を睨みつけていた。
「だから、女は嫌だって言ったんです」
「またそれか……。君にとって女は天敵のようなものだな……」
「今年はうるう年だったというのに惑わされました……」
バーの店主は「店の創業祭があるのにカオリは休みを希望していて、前の日に出勤して準備を手伝うから創業祭は休ませてくれと言ったのでよく覚えている、二月二十八日は出勤して翌日は休んだはずだ」と言ったと調査書に書かれていた。取り調べでも、被疑者のカオリは、働いたのは創業祭の前日だったと申告していた。店主が、今年はうるう年で二月に二十九日があるということをうっかり忘れてそう言ったものだから、捜査員は、創業祭を三月一日ではなく二月二十九日だと勘違いして、事件が起こった二十九日に被告は子供を放置して遊んでいたと思ったらしい。
「なんで店主の言ったことを鵜吞みにしたんだよ。創業祭は何時だったのか、まず確認すべきだろ」
「はい、おっしゃる通りで……」
「だって、米澤さん、被疑者の女性に接見したのって、たったの一回ですからね。確認しようがないですよ」
事務官がため息を吐きながらそう言ったので、僕は彼を睨みつけたが、彼は肩をすくめただけだった。
「しょっちゅう子供を置き去りにして遊んでいたのに、子供が事故死した日は、偶々きちんとベビーシッターを頼んで、働いていたというわけだな」
「しかし、あの女は、翌日、子供が布団で死んでいるのにも気付かず、よく寝ていると思っていたと言い、ただテーブルにスナック菓子を置いただけで、子供を放置してまた遊びに出かけているんですよ! こんな酷い話ってありますか! あの女が子供を殺したも同然です!」
「でも、検死結果は餓死じゃなくて溺死なんだろう?」
「そうですけど……」
「やっかいなのは、被告じゃなくてベビーシッターかもしれんな。どうして救急車を呼ばずに布団に寝かせておいたんだ?」
「気が動転していたと言ってましたが……」
「しかし、君にとって女は鬼門だな。被告が男だと百発百中なのに、どうして女だと一発も当たらないんだ? いくら何でも極端過ぎるだろう?」
「そこなんですけど、検察官をやっている限り、女性と接触したくないという我儘は通用しないと思うんです。だから決心しました」
「何を決心したんだ?」
「本日で退職させてください」
「ええっ!」
僕は、幼いあの日から抱えることになったトラウマを克服出来ずに、長年勤めた検察官を辞めた。僕は四十五歳になっていた。