第二話 3
レイデンの言った通りのことが起きたせいで興奮していたのか、次の日の朝、いつもより早く目覚め、庭のテラスに出て、新聞を読んでいた。ふと顔を上げ、庭の隅を眺めると大きな木の切り株が目に入った。すると、執事の森山が「唐吉様、朝食の支度が整いましたよ」と呼びに来た。僕は、切り株を指差し、森山に問うた。
「確か、昔ここに、桜の木があったはずだよね?」
「そうです。でも、ご主人様が切り倒してしまわれました」
「え? どうして?」
「さぁ? 根元が腐っていましたし、何かご主人様のお考えがあったのでしょう」
森山はそう答えたが、心なしか彼の表情は曇っているように見えた。
「唐吉、海東光次展に行っていたそうだが、お前が絵画に興味があったとは意外だな」
朝食をとりながら、祖父が言った。
「そうですか? 海東光次さんの絵は前から興味があったし、亡くなったと聞いて、是非行きたいと思ったんですよ」
祖父に唐突に訊かれて、僕は嘯いた。レイデンに言われなければ、海東光次の遺作展が行われることさえ知らなかっただろう。
「そうか……。昔、まだ和吉が大学生だった頃、彼はこの屋敷にしょっちゅう来ていたな。和吉と海東君は、ちょうどお前と小五郎君のように仲が良かったようだが、何があったのか、その後ぷつりと足が途絶えた」
「そうだったんですか。父さんと海東さんは、そんなに仲が良かったんですね」
朝食を終え、食後のコーヒーが運ばれてきた時、ちょうど来客があった。祖父の弟の娘、米澤綾子だった。
「ごめんなさい、朝早くから。あら、まだ朝食の途中だったのね」
「いや、ちょうど終わったところだ。気を遣うような間柄でもなかろう。君ならいつでも大歓迎だよ」
祖父は、この姪を子供の頃から、目に入れても痛くないくらい可愛がっていたらしく、僕に対する扱いとは正反対で、何かと米澤綾子には甘かった。
「伯父様、うちの庭のミモザが満開になりましたの。お好きだったでしょ? さっそくお見せしたいと思ってお持ちしました。亡くなったはる子伯母様も、新婚旅行で訪れたコート・ダ・ジュールで見たミモザが忘れられないと、しょっちゅうおっしゃってたわ。伯母様に見せてあげたいと思いましたの」
「ああ、ありがとう。そうだな、今でも昨日のことのように思い出されるよ。森山、この花をあそこに飾ってくれ」
祖父は、祖母の遺影が飾られている暖炉を指差した。
「唐吉さんにも持って来たのよ。昨日、スイスのチョコレートを山ほど頂いたから、ケーキを焼いてみたの。好きだったわよね? 和吉さんも大好きだったわ。私が焼いたケーキをいつも喜んで食べてくれてた。伯父様と森山さんと皆さんで召し上がって」
上品で美しい叔母、米澤綾子は、ガトーショコラを作って持参していた。親戚ということもあるのだろうが、彼女は、何かと我々家族を気遣って我が家を訪れていた。僕は、女嫌いが禍して、彼女に子供の頃から素直に心を開けないでいた。それなのに、叔母はそんな僕に対していつも優しかった。僕は心から彼女に感謝していた。米澤綾子が訪れると、火の消えた我が家に灯りが灯る。祖父や森山の顔に笑顔が蘇るのを見ていると、僕は彼女に感謝せざるを得ないのだった。