最終話 3
青空園に到着し、南条久志は、僕達三人を応接室に迎え入れた。
「こんなところまで、わざわざお越し頂き、本当にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お仕事をご依頼頂きまして感謝しております」
僕がそう言うと、南条久志は笑顔になった。そして「早速ですが……」と前置きし、静かに喋り始めた。
「もう、何年前でしょうか、かれこれ四十年くらい前になると思いますが、彼女は、ちょうど桜が咲いている時期に、海岸を彷徨っているところを、富戸の漁師に保護されたんです。彼女は何にも持たず、ふらふらと裸足で歩いていたそうです。どこから来たのかと聞いても、ただ、『あっち』と浜のほうを指差すだけで、何も答えなかったそうです。彼女は、その時既に、すべての記憶を失ってしまっていました。怪我を負っていましたし、しばらくの間、入院していましたが、記憶は一向に快復しませんでした。捜索願も出ておらず、記憶も戻らなかったので、体調が快復した後、保護司をしていた老夫婦のところで面倒をみて貰うことになったんです。子供のいなかった夫婦は、娘ができたようだと喜び、いつも沈んでいた彼女も、この夫婦のおかげで笑顔で過ごせるようになったそうです。一向に記憶の戻らなかった彼女は、自分の名前も忘れてしまっており、夫婦の苗字の水瀬を貰い、桜が好きだったことから、下の名前は桜にし、水瀬桜と彼女は名乗ることになりました。そのうち、老夫婦は年を取り、この施設に入所することになりましたが、それがきっかけで、彼女も希望して、この施設で職員として働くことになったんです」
「そうだったんですか……」
「ええ。私と彼女は、この施設で長年一緒に働いてきましたが、彼女は若い頃から、人気者でしたねぇ。明るく朗らかで、誰にでも親切だからです。勿論、私も彼女のことが大好きでした。だから、一度、私も彼女に交際を申し込んだことがあったんですが、見事にフラれましたよ。まぁ、これは余計な話ですけどね」
そう言いながら、南条久志が笑ったので、僕も山本道代も新宅正司も笑った。しかし、次の瞬間、南条久志は、急に神妙な顔になった。
「彼女は、このままの生活を続けるつもりなんでしょうけど、でも、気になっていることがありましてね、毎年、桜の季節になると、桜を見て泣いているんです。『どうして泣いているのか?』と訊ねても、『どうしてだか分からない。思い出したいのに思い出せない』と言うんです。私が、『思い出したいのか?』と訊くと、彼女は、『ええ。今まで思い出さなくてもいいと思っていた。私は水瀬のお父さんとお母さんのおかげで幸せだったから。でも、このまま思い出さなかったら、きっと私は後悔する。出来ることなら思い出したい』と言ったんです。『どうしても思い出したいのか?』と念を押すと、彼女は『どうしても』と答えました。彼女は僕と同世代だと思うから、おそらく年齢は六十代後半だと思います。だから、もうそんなに時間は残されていないんです。彼女の本当の家族が生きているなら、会わせてあげたいし、彼女の記憶を取り戻してあげたいと思ったんです」
「水瀬さんは、南条さんが調査を依頼していることをご存知なんですか?」
「いえ、まだ話していません。でも、近いうちに話そうと思っています」
「そうですか。水瀬さんからお話を聞きたかったんですが、もう少し後のほうがいいですね」
「そうですね。そうして頂けるとありがたいです」
南条久志との話を終えると、僕と山本道代と新宅正司は、施設で働いている水瀬桜の姿を遠くから眺めた。すると、水瀬桜はこちらに気付き、笑顔で会釈してくれた。彼女が車椅子を押していたココの元飼い主もこちらに気付き、手を振ってくれたので、僕も彼女に手を振り返して応えた。