前編 ★
石河翠さまよりバナーをいただきました!
冒頭に挿入しております☆
「……どうするおつもりですの?」
「どうもしない。お前は今すぐこのベッドで眠り、朝になったら家に帰る。俺は朝まで飲みにでも行くさ」
幽霊が出ると噂の廃城で、ルイーズは世にも美しい男と相対していた。
いや、美しいというのは少し語弊があるかもしれないと、ルイーズは考えなおす。意志の強そうな眉、大きな口は整っているものの一般的な美とは違う。
野性味と、思慮深さが綯い交ぜになって、さらにどこか陰のある表情に、なぜかルイーズは目が離せなかった。
ほんの少し前、ルイーズと少数の侍従を乗せた馬車は、突然の大雨にこの近くの森で動けなくなり、野盗に襲われた。
それを助けたのがこのオーレリアンと名乗る美しい男だ。オーレリアンは、ひとり生き残った侍従を馬に乗せて走らせ、ルイーズをこの城へ連れて来たのである。
廃城だと誰もが思っていたこの城は、外観こそ蔦に囲まれた上にボロボロであるが、門は音もなく開いて日頃の手入れを思わせたし、室内も掃除が行き届いているようだった。
少なくとも、ルイーズが見た限りでは。
「朝になればさっき馬に乗せた男が迎えを寄こすはずだ。起きたら門を出て待てばいい」
ルイーズはこの日、会ったこともない男の元へ輿入れすることになっていた。
辺境に広大な領地を構えるその男、クロード・バルバストルは、社交を嫌って人前にほとんど出てこないため、醜男だとか暴虐趣味だとか口さがない噂話が絶えない。
中でも人々の最もお気に入りの噂は、捕虜として捕らえた敵国の兵の生き血を啜ってるだとか、血液風呂に入っているだとか、およそ現実感のない話だ。
夜襲を得意とし、圧倒的な武力で他国からの侵攻をものともしない社交嫌いな男を、王家もまた腫れ物のように扱っている。
先の戦における戦功に、これ以上の領土割譲は危険であるとする意見が強く、褒美として第5王女であるルイーズが降嫁することとなったのだ。
「このまま、わたくしをここに置いてくださらない?」
「駄目だ」
「誰も探しはしませんわ。あなたにご迷惑はおかけいたしません。侍女として置いてくださればそれで──」
「何度も言わせるな」
有無を言わせない重い空気だけを置いて部屋を出たオーレリアンの姿は、いくら窓の向こうを探しても煙る大雨の中には見つからなかった。
輿入れの緊張、野盗の恐怖、轟く雷鳴……それらはルイーズをなかなか寝かしつけてはくれず、どうにか意識を手放せたのは日が昇り始める頃だった。
心地いい眠りはそう長くは続かず、小さな物音と空腹に染みる美味しそうな香りでルイーズが目覚めると、少しの乱れもない執事服を纏った男が朝食の支度をしていた。
「お目覚めですか。この城は手入れが行き届いておらず食堂へご案内できかねますので、朝食はこちらでお召し上がりください」
「あの、オーレリアン様は……」
「お休みになっています」
テキパキと支度をする執事は、馬車が到着するまでこの部屋で寛ぐようにと言って退室した。
(執事がいるのに、どうして……)
昨夜、濡れたルイーズにタオルを寄こしたのも、代わりの衣類がないからと清潔なシーツを与えたのも、そして部屋に案内したのもオーレリアン自身であった。
「……美味し……」
普段のルイーズの食事と比べればかなり質素なものだが、味はどうして、いつものそれと並ぶ美味しさである。
小食のルイーズでも食べきれるほどの量であった食事をぺろりと平らげると、部屋から続くバルコニーへ出て、庭を眺めた。
雨はすっかりやんでいる。日差しが降り注ぐ庭はほとんど手付かずと言っていいほど荒れていた。
このバルコニーも老朽化が進んでいるようだが、メンテナンスというメンテナンスはしていないのだろう、手すりはボロボロで、触れれば怪我をしそうだ。
もしかして、従僕は先ほどの執事だけなのだろうか。
オーレリアンは粗野な雰囲気で接しながらも、洗練された動作が端々に見え隠れしていた。執事までいるのだから、廃城に勝手に住み込んでいるならず者というわけでもないだろう。
(わたくしと一緒……いえ、執事がいるのだもの、わたくしより恵まれているわね)
馬車ひとつだけの輿入れだ。形ばかりの護衛と侍従が2人ずつ。彼らも、侯爵邸へ到着すれば王城へ帰る手筈になっていた。
ルイーズの母である側妃はとうの昔に亡くなっている。邪魔者の処理と腫れ物への形ばかりのご機嫌伺いができるのだから、王家にとっては良い話であっただろう。
振り返って室内に戻ると、既に食事の後片付けは済んでいた。
書き物机の上には小さな本。
手にとってみるとそれは、近頃流行りの童話であった。他国の少女がモデルとされる童話には新進気鋭の女性画家がつけた挿絵があって、子どもから大人まで大人気だと聞く。
迎えが来るまで読んでいようか。
温かな日差しが入り込む窓のそばで、揺り椅子に腰かけ、いねむりひめが眠りの呪いに立ち向かう冒険活劇を読む。何度か読み直すうちに、そういえば似たような話をどこかでと考えながら、ルイーズはうとうとと夢の世界へ誘われた。
「おい、起きろ」
よく通るバイオリンのような声に重い瞼をこじ開けると、日のほとんど落ちた薄暗い部屋の中で、オーレリアンが怒ったような顔で仁王立ちしていた。
「あら、迎えが来ましたか……?」
「……来なかった」
「そう、ですか」
沈黙。
「さっき、お前の乗った馬車を確認した。お前は王族なのか」
「王の血が混じっているだけです」
「……行先はバルバストル侯爵家?」
「ええ」
オーレリアンはくしゃくしゃと頭を掻いて、深く溜息を吐いてからベッドに腰かけた。
「侯爵家はここからならもう目と鼻の先だ。報せを受けた侯爵家がこの時間まで誰も寄こさないはずがないし、遠い王城へ戻る選択は普通しない」
「……」
「馬車には、物色された形跡があった。昨日、報せにやった男は恐らく……」
曲がりなりにも王女の降嫁である。少ないながらいくらかの持参金その他金目の物も運んでいた。男は逃げたのだ。
オーレリアンはもう一度溜息を吐いた。
(行くも戻るも無理、か)
侯爵家へ連れて行くことはできない。野盗に襲われ、一晩をどこで過ごしたか説明のつかない王女が歓迎されることはないだろう。
王城へ戻すのはもってのほかだ。旅の規模を見ればわかる。この嫁入りには誰も興味を持っていない。
「ここに置いてくださらない? 食事は作れないけれど、勉強します」
「……食事はいらない。トマスの言うことをよく聞け。俺の部屋には入るな。それから……出て行きたくなったら言え。お前の家と職場くらいは準備できる」
ルイーズがオーレリアンの言葉の意味を正しく理解したとき、室内にはすでにオーレリアンの姿はなかった。
トマスとは先ほどの執事だろうか。無愛想だが、気持ちの良い青年だ。
それからルイーズにとって平和で、しかし奇妙な生活が始まった。
トマスは通いの執事らしい。朝になると城へやって来て、オーレリアンが利用する部屋だけ掃除をし、飼っている馬の世話といくつかの事務処理をして夕方帰る。
城内の最低限の仕事はトマスだけでどうにかなっているらしい。
ルイーズは、好きなことをして構わないと言われたため、普段使われていない部屋を少しずつ掃除することにした。
また、庭の手入れも始めた。あまりにも広い庭すべてをどうにかすることはできないが、オーレリアンの部屋のバルコニーから見えるだろう部分を中心に整えていく。
あれからオーレリアンとルイーズはほとんど顔を合わせていない。
城主の私室はいつも鍵がかかっていて、トマスに聞けばいつだって寝ているとの返事があるだけ。ごく稀に夕方顔を合わせることもあったが、ルイーズにとってオーレリアンはいねむり王子に違いなかった。
そしてもう一つ、王家と侯爵家の間に軋轢が生まれていないのか、二人に聞いてもトマスは何も知らないと言うし、オーレリアンは何も問題ないと言う。
まさかそんなはずはないだろう、と思いながらも、それ以上の情報を知る術をルイーズは持っていない。
この城での生活は、それらの奇妙な点を除いてなんの不満もなかった。
衣類や日用品、いくつもの花の種や苗もトマスが買って来てくれるし、掃除で荒れがちな手にはクリームまで用意される。それにトマスの作る料理はいつも美味しかった。
作り方を習おうとすると、火傷されては困るからと頑なに火のそばに寄らせてくれないのは不満と言えるのかもしれないが。
庭の一角では色とりどりの花が咲き、食堂やサロン、それにいくつかの部屋や廊下が在りし日の美しさをとり戻し始めた頃、オーレリアンとトマスが珍しくルイーズの部屋を訪ねて来た。
「出かける。準備しろ」
ルイーズが何か言う前に、トマスが豪華なドレスとルイーズを一緒に衣裳部屋へと押し込む。
彼女にとっては着慣れたドレスである。侍女の助けがなくともある程度の準備はできる。仕上げは手伝ってもらう他ないが、異性に余計な肌を見せることなく準備できるだろう。
衣裳部屋から出たルイーズをドレッサーの前に座らせ、トマスがヘアメイクを手早く済ませる。
まさかトマスが女性のドレスアップまでこなせるとは思いもよらず、驚きのあまり言葉を失っているうちに、同じく支度を終えたらしいオーレリアンが迎えにやって来た。
「馬車が来た」
馬車の中は静かなものだった。
オーレリアンはじっと窓の外を眺め、ルイーズは目のやり場に困るというようにきょろきょろと視線を彷徨わせる。
(お姉さまたちより綺麗……)
自分自身、十分美しい自覚はあるルイーズであったが、兄姉たちの美しさは国の内外を問わず評判だった。
特に絶世の美女と謳われた正妃の子らの美しさは眩いばかり。そんな兄姉で美貌は見飽きたと思っていたルイーズをもってしても、オーレリアンには形容しがたい気品があった。
単純な、カタチとしての美しさではない、内からにじみ出る美しさだ。
「落ち着け。目にうるさい」
「ご、ごめんなさい」
そわそわするルイーズに辛辣な言葉が飛ぶ。
しばらくすると、オーレリアンがぽつりと言葉をこぼした。
「戦勝祝賀会だ。バルバストルの屋敷に行く。王族も来る。胸を張れ」
「え? ……え?」
少し前にバルバストルが北西の国との防衛戦線を勝利し、平和条約を締結したらしいという噂はトマスから聞いていた。
その祝賀会だろうか。
(なぜオーレリアン様が、いえ、なぜわたくしまで?)
それきり口を噤んでしまったオーレリアンに、浮かんでは消えるいくつもの疑問を投げかけることができないまま、馬車はバルバストル邸の門をくぐった。
「バルバストル侯爵、さすが、主役は遅れてくるというやつですな。ルイーズ様も変わらずお美しく……」
「侯爵様、本日はお目にかかれて光栄に存じます。私は……」
会場に到着するや否や、次々にオーレリアンのもとに挨拶に訪れる客人たち。
ルイーズは混乱し通しで、ただただ意味もわからず挨拶されるのを、生まれついての王族としての癖で返答するばかりであった。
オーレリアンとルイーズの前にできた挨拶を求める列は長く、オーレリアンに説明を求める暇もない。
ただ、来客のほとんどはルイーズも一度や二度は会ったことのある人物であり、彼らとの会話の中で、どうやら己がクロード・バルバストルの妻であるらしいと理解した。
どうしてそうなったかはさておき。
しばらくして侍従によって列が解散されると、オーレリアンはルイーズをエスコートしながら会場入り口へ移動する。
「貴賓だ。お前は俺の横で顔を上げて堂々としていればいい」
振り返ってルイーズの耳元で囁くオーレリアンの目は、言葉の尊大さとは裏腹に優しさと温もりに溢れている。
ルイーズは小さく頷いて、オーレリアンと共に貴賓の到着を待った。