04
ジキルはアリサの体をグッと引き寄せると、向かい合ってハグするような形で自分に縛り付けた。
通常このような救助の場合、被救助者をザイルに吊るし、向こう側から引っ張るような手順を取る。俗に言う『ロープブリッジ救出』である。
しかし今は、誰も手助けしてくれる者がいない。だから、こうする以外に方法がなかった。
「アリサ、しっかり抱きついてろ」
「うん! 絶対はなさないよ!」
アリサは自分のすべてをジキルに委ねた。頼もしい胸に耳をくっ付けて、心臓の鼓動を聞く。それだけでアリサは安心できた。
ジキルは向こうから来た時の要領で、ザイルに掴まった。二人分の体重が両腕にズンとかかった。
アリサの体が邪魔になり、足を持ち上げるのが困難だった。それでも何とか足をザイルに絡ませて、体勢を整える。
あまりの重量に驚愕し、ジキルは自分を落ち着かせるため深呼吸した。
「店長……アリサ……」
真里は両手を顔の前で組み、二人の無事を祈った。
アリサを体に括っている状態で、ジキルはザイルを渡った。一人の時ほど速くはないが、それなりのスピードだった。
しかし、ちょうど彼らが中間地点まで辿り着いた、その時だった。
ドーンという凄まじい爆音と共に、八階の窓から大きな炎が上がった。
「……っ!!!」
炎は瞬く間に外壁を焼き、壁を伝って燃え広がった。
階段付近も大きな炎が上がっている。階下からの炎が噴き上がって来ているのだ。
「きゃああああっ!」
真里が思わず声を上げた。ザイルを繋いでいるフェンスが、高熱でじわじわと傾いている。
ジキルたちの重量も手伝って、ザイルはゆっくりと撓み始めた。
アリサは目をつぶって、ジキルの胸に顔を埋めた。
ジキルは高速で手足を動かそうとした。が、ザイルが緩んでゆらゆらと揺れている状態では、うまく渡れない。
思わず真里は素手でザイルを掴み、力いっぱい引っ張った。
「頑張れー、二人とも……ふ~むむむむむむ……」
しかし、少女一人の力で、二人分の人間を支えることなどできるはずがない。両のてのひらをザイルが摩擦し、皮が剥けて血が滲んだ。
血が滲んでいるのは、ジキルの手も同じだった。
デパートのフェンスはどんどん傾き、倒れかかっている。完全に倒れてしまったら、二人は宙吊りだ。
炎の勢いも留まるところを知らなかった。このままだと、フェンスはおろかザイルそのものが熱でやられてしまうかもしれない。
熱風が下から吹き上げてくる。階段から上って来た炎と白煙が、屋上を徐々に覆い尽くして行く。さっきまでアリサが立っていた場所は、すでに炎の海となっていた。
ザイルがどんどん緩んで、ジキルはなかなか先に進めなかった。
一人ならば、身軽さを生かしてどうにでもなる。しかし、今は動きが数倍も鈍くなっている。
「あ、あかん、もう……腕が」
ジキルが弱音を吐いた、正にその時。
突如、ザイルがピンと張った。
「……?」
驚きながらも、ジキルは綱渡りを再開することができた。大急ぎで隣のビルの塀に乗り移り、屋上側に倒れ込む。
目の前に、巨大な何かがそびえ立っていた。
その影になりつつ、ジキルはおそるおそる顔を上げた。
「か、神田さん……」
神田槍介がザイルを支え、ジキルたちを見下ろしていた。
真里は槍介の足にしがみつき、息を荒げながらへたり込んでいる。
槍介の後ろにいたみそのが、ジキルに駆け寄って来た。
「アリサちゃん! ジキル! 大丈夫!」
「うわあああん、みそのちゃあん!」
アリサはみそのに飛びつこうとして、手足だけでじたばたと暴れた。ジキルはアリサの拘束を解いた。
「はあ……はあ……はあ……」
ジキルは肩で息をしながら、みそのと真里に抱きつくアリサの姿を見ていた。
上から、ぼそりと声を掛けられる。
「貴様という奴は……」
「へ、へへっ……」
「携帯電話という文明の利器を知らんのか。なぜ俺を呼ばない」
「そ…そこまで考えられへんかった……」
「気違い沙汰だ。たった一人でこんなことしやがって」
「こ、子供巻き込んで……忍者ごっこしただけ……や……」
ジキルはその場に仰向けに寝そべった。
みそのは、アリサと真里を抱き締めながら、涙ながらに口を開いた。
「真里ちゃん……心配したよ。携帯に何度かけても繋がらないから」
「あははっ、ケータイ、荷物の中だ。どっかに置いてきちゃった」
「あちこち傷だらけだよ……もう! 無茶してェ!」
両手と、両膝の裏が擦りむけて血が滲んでいる。モンキー渡りのせいだった。更にくまなく全身を調べると、両肘、両膝もかなり大きな傷ができていた。着地して転んだ時についた傷だろう。
「ごめんね、みそのちゃん。心配かけて」
真里はぺろっと舌を出した。みそのは心配そうに真里の手をぎゅっと握り、
「とにかく一度、事務所に行って、それから病院行こう。ねっ」
と、彼女を立ち上がらせようとした。
しかし真里は、足がガクガクと震えて動かない。
直後、真里は激痛に顔を歪ませた。
「痛たたた……イ、イッ、痛っ……足首……痛ぁい……!」
「真里ちゃん!」
「真里ちゃぁん!」
足首を押さえ、その場にうずくまる。
緊張のため今まで大丈夫だったのが、安堵したと同時に痛み始めたのだろう。
槍介がヒョイッと真里を片手で抱き上げた。
そしてジキルを見下ろし、無慈悲な言葉を発した。
「アイドルを怪我させたってことになると、お前……大変なことになるぞ、今後」
「はああ……衣装関係の契約破棄も、覚悟の上や……」
力なく、ジキルは答えた。
*
槍介とジキルからすべての事情を聞いた田島は、すぐに真里を病院へ運ばせた。
両足首捻挫。他にもあちこち擦り傷を負っていたため、全治一ヶ月と診断された。
しばらくの間、真里は松葉杖をついてテレビに出演しなければならない。
トークはもちろん、レギュラー番組の歌のコーナーも椅子に座っての演奏である。
「地上十階で! 小学生をビルからビルへと跳ばせたなんて! 君って人は何を考えてるんだよっ!!!!」
赤坂見附にある飯田プロダクションの社長室に、怒号が響き渡る。
社長の田島は目をむいて憤りながら、目の前の小男に剣突を食わせた。
ジキルはソファで小さくなり、ただ頭を下げ続けるしかなかった。
「すんません……ホンマ、すんません……」
「子供の体を何だと思ってるわけ? しかもうちの大事なアイドルなのに!」
「全部、ワシのせいです……責任取ります……」
「責任も何も、スケジュールは滅茶苦茶だし、『PUSSYCAT'S』の新曲も延期せざるを得ないし、どれだけ損害を被ったと思う?」
「申し訳ありません。ホンマに申し訳ありません」
「ジキルくんさ、君は、事の善悪ってものがわかんないのかな、まったく」
「ホンマ、申し訳ありませんっ!」
普段は温厚な田島であったが、怒ると手がつけられなかった。
ジキルとしても、何もかも自分が悪いのだから反論できない。
田島はしばらくの間、叱責を繰り返していたが、やがて大きな溜め息をついて、ソファに腰をおろした。
「とにかく……もう、ここには出入り禁止ってことにさせて欲しいんだけど。いいかな」
「はい……」
「今、進めてもらってる衣装の方も、悪いんだけど、もう……」
「わかりました……」
そこまで話した時、不意にギィー…とドアが開いた。
「誰? 今、大事な話し中……」
「あ、あの」
「あのー」
ぴょこんと顔を出したのは……雅香と紗菜だった。
二人はおずおずと部屋の中に入り、田島に深く頭を下げた。
「社長、お願いします。ジキルさんを許してあげてください」
「お願いしますぅー!」
「わたしたち、これからも[JEKYLL-DOU]の衣装を着たいんです!」
「次の衣装だって、すごく楽しみにしてたんですー」
「雅香ちゃん……紗菜ちゃん……そんなこと言っても、彼は真里ちゃんのことを」
「でも、あの時はしようがなかったんだよ、社長っ!」
二人の後ろから、みそのが駆け込んで来た。キッとした表情で田島を見据えている。
「みそのちゃん。状況は俺も何度も聞いたよ。でもね」
「だって、アリサちゃんが死んじゃうとこだったんだよ!」
「アリサちゃんは、わたしたちの大事なお友達なんです!」
「真里ちゃんが助けてくれたって聞いてー、わたしたち、胸がいっぱいになってー」
みそのの後に、雅香と紗菜も言葉を続ける。
しかし田島は多少たじろぎながらも、
「そういう問題じゃないんだよ、みんな。大人の話に口出ししちゃいけないよ」
と、三人の訴えを退けた。
みそのと雅香と紗菜は、シュンとしてうつむいた。
その時。
ふと、三人は耳をそばだてた。廊下から、規則的なコツ、コツという音がする。
音は次第に大きくなり、やがて社長室の前で止まった。
みそのがドアを開けると、そこには松葉杖をついた真里が立っていた。
「真里ちゃん。自宅で安静にって、言っておいたはずだよ?」
田島は眉をひそめた。
真里は田島の顔をじっと見つめながら、言った。
「言っておきたいことがあって、来ました。社長」
「……座りなさい」
真里はゆっくりとソファに歩を進めた。体を気遣い、雅香たちがサポートする姿勢を見せる。
真里はジキルの隣に腰掛けると、
「うふふー」
と、ジキルに向かって笑った。そして、ゆっくりと話し始める。
「社長。あたし、今まで……自分が<メルティピンクの四人目>だと思ってたんです」
「四人目?」
「順番に名前言ってったら、必ず最後に思い出す。そんな感じ。でも仕方ない。あたしは、みんなに比べたら、自慢できるものなんて何もない。そう思ってました。ずっと」
「真里ちゃんは、運動神経抜群で、ダンスだって天才的だろう?」
「うん……でも、そんなの自慢にできなかった。あたし、どっかで自分のそういうの、認めてなかったみたい」
真里はゆっくりと言葉を選びながら、落ち着いて話した。
みそのも雅香も紗菜も、呆然として真里の顔を見つめていた。同じグループのメンバーであり大親友がそんなふうに考えていたなんて、夢にも思わなかった。
田島は黙ったまま、じっと真里の言葉を噛み締めた。
「でもね、社長。あたし跳べたの。大人でも跳べないようなところを……空を飛んだの! そうしたら、今まで悩んでたことが全部吹っ飛んじゃって、体の中から、自信が沸き上がってきたの。すっごい気持ちよかった! すっごい世界が変わったの! 何か、いろんなことがわかって……おかしいんだけど、ごはんも前よりおいしく食べられるようになったの!」
生き生きとした真里の表情に、田島は相槌さえ打てなかった。
その隙を縫って、
「レンジャー訓練とかするとな、人格変わる人もおるんやで」
ジキルが真里に話しかけた。
「本当?」
「極限に挑戦するいうのはそういうことらしいで。今まで見えんかった自分の内側、見えるようになる。自分の本質、見極められるようになる」
「店長のおかげで、あたし、生まれ変われたような気がする」
「そうか。よかったなぁ」
「……」
田島は困ったように眉間に皺を寄せた。
*
「……もう、いいんじゃないかしら」
先程から部屋の隅に立ち、話を聞いていた副社長の飯田が口を開いた。
「姉さんまで……」
田島は大きな溜め息をつき、ソファに身を沈めた。
「プロデューサーからも連絡があってね。ジキルくんが衣装関係のスタッフから外れるんなら、ちょっと、へそ曲げるって。次の曲に関しては白紙になるかもって」
「卑怯だな……姉さんの方に電話するなんて……」
「夏樹くんがへそ曲げたら、もっと大きな損害になるわね」
「……う…ん……」
「もう、今となっては怒ってるの……竜ちゃんだけなのよね」
「ああもう、わかったよ! お咎めなしってことにしたらいいんだろっ!」
田島はテーブルを軽く叩いて、立ち上がった。
「やったぁ!」
四人の小学生アイドルたちは、手を叩いて喜びを分かち合った。
「ありがとうございますっ!」
ジキルは起立して、頭を下げた。
田島は何も答えず、黙って部屋を出て行った。
廊下で何度も溜め息をつき、うなだれる。
「はあ……まいったな、まったく……」
頭を掻きむしりながら、廊下を進む。すると、不意にその行く手を遮る人影があった。
「ん……?」
黒い服に身を包んだ少女が、一人で廊下に立っていた。
「アリサちゃん」
「あのね、あのね、ごめんなさい。ぜんぶ、アリサが悪いの。おうちに帰ってから、ジキルにも、いっぱい叱られたの」
フッと笑って、田島は腰を屈めた。アリサと視線を合わせながら、軽く頭を撫でる。
アリサは不安そうな顔をして、矢継ぎ早に質問した。
「ねえ、じきるはクビになるの? もう、げいのうじんのお洋服作れなくなるの? アリサ、メルティピンクとお友達でいるの、ダメになっちゃったの?」
田島はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……アリサちゃん。おじさんと取引しようか」
「とりひき?」
「うん。アリサちゃんがおじさんの言うこと聞いてくれたら、ジキルくんのことは許してあげる。どう?」
アリサは満面に笑みを浮かべた。
「アリサ、とりひきする! どうすればいいの?」
「じゃあ……」
田島はアリサの青い瞳をじっと見つめ、言葉を続けた。
「アリサちゃんは、おじさんが頼んだ時に、テレビに出て歌ったり踊ったりしてほしいんだ。今すぐじゃなくていい。ジキルくんと相談して、学校の勉強に差し支えない時に、メルティピンクみたいに、芸能活動してほしいんだよ」
「うん、わかった!」
「約束だよ。専属契約だ」
「せんぞくけいやく!」
アリサは飛び上がって喜び、ジキルたちのところへ走って行った。
田島は立ち上がり、アリサに手を振りながら軽く微笑んだ。将来有望な子役タレントがまた一人、プロダクションに所属したというわけである。
収支決算をすれば、こちらの方がずっと得だと田島は思った。
「なかなかやり手だな」
廊下で壁にもたれていた槍介が感想を述べる。
田島はクスッと自嘲気味に笑いつつ、肩をすくめた。
「まるで俺が悪者みたい」
「立場上、ああ言うしかないだろう。あんたの方が正しいよ」
「ありがとう。わかってくれて」
「ここの社長は真面目過ぎて不器用だと、[イーハトーボ]のマスターに聞いてるんでね」
「ああ、そうだよ。もう何十年も……そのせいで彼には迷惑かけてるよ」
「親友なんて、そんなもんじゃねえのか」
「そうなのかな」
田島は曖昧に笑い、槍介の前を通り過ぎて行った。
槍介は煙草を一本口にくわえ、一服すると大きく煙を吐いた。
*
週末。
写真週刊誌に、みそのと真里の写真が掲載された。
お忍びでショッピング中、デパート火災に巻き込まれたという記事だった。避難した客に紛れてデパートを見上げるみそのと、買い物の最中の二人が激写されている。
そこには、逃げ遅れた買い物客の救出に尽力したため、真里は両足を怪我したのだということまで書かれていた。
このことはワイドショーでも騒がれ、『真里ちゃんお手柄!』と見出しがついたスポーツ新聞も世間に出回った。
田島と飯田の指示通り、事務所が取材に対応した結果だった。
ジキルとアリサのことは伏せられたまま、真里の武勇伝だけが有名になったというわけである。
もっとも、隣のビルから飛び移った……なんてことは、当然シークレットなのであった。
真里のもとには取材が殺到し、彼女は一躍、時の人となった。
この事件以降、真里にはその類い稀な運動神経を生かした仕事が舞い込むようになった。
少女の個性は花開き、輝き始めたのである。
そして一ヶ月後――。
「来る前に連絡くれたらよかったのに。アリサは今日、ブティックの方に行ってんねん」
[じきる堂]を訪問した真里は、店長の言葉を聞き、首を横に振った。
「いいの。今日は、店長に会いに来たんだもん」
「ホンマか~。嬉しいこと言うてくれるなぁ。お前、もう足はええのか?」
「もう治ったよ。バリバリ、ダンスしてるよ! 今日もこれからピンの仕事なの」
「捻挫は癖なるから、気ィつけてな」
「うん。……ありがとね、店長。いろいろ」
真里はジキルの顔を見ると、にっこりと微笑んだ。そして、
「今度、消防レスキューに一日体験入隊するんだ。小学生の防災意識を高めるためのキャンペーンなんだよ」
と、胸を張る。
「ほう。それは凄いなぁ」
「やっぱり、大切な人のこと、守りたいもんね! 自分の手で!」
目をきらきらと輝かせながら、真里は語った。
ジキルは、店の入り口で待つ槍介に目配せしつつ、じっと真里の話に耳を傾けた。
(了)