いざない
僕には毎年、夏になると強く想起させられる情景とメロディーがある。
昭和56年の夏、高校一年だった僕は人生で初のアルバイト、夏休みのアルバイトを探していた。
10月には晴れて16歳となり原付の免許が取れるので、KawasakiのライムグリーンのAR50を
買いたかったのだ。AR50はその名のとおり50CCながら当時クラス最強の7.2馬力。
リアサスにはユニトラックサスペンションをおごり、時代の最先端を行く50ccバイクだった。
手に入れる為には働いて、お金をためなければならない。
既に16歳となり免許を取った友人たちは当時の流行りの原付スクーターに、チャンバーという
巨大な蠅が飛び回っているような音をだす交換マフラーに付け替えて、得意げに乗り回していた。
「早くしなければ。免許は誰でも取れる。金だ、金をつくらないと。俺はスクーターなんか
乗らないぞ。」と焦る気持ちは沸点に達しつつあった、アルバイトの募集は様々、
雑多な業種の求人がこれでもかというくらいあった。僕も日本もまだ、若かったのだ。
ある日、何新聞だったか忘れてしまったが広げ、求人の三行広告を見ていると
「葉山 海 バイト日給8,000円上 寮完備 三食付」の文字が目に飛び込んできた。
葉山には縁が有った。父が乗合船で出る海釣りが好きで、僕も小学生の頃に2回連れられて
行ったことがある。葉山の漁港からの出港だった。2回乗って、「もう一生乗らない」と
心に誓ったものだ。だってあの船酔いときたら。魚を寄せ付ける為に海に撒くコマセという
イワシやサバをミンチ状にしたものがあるが、その匂いときたら。
そして波に翻弄される船の動き、ディーゼルエンジンの排気の匂い。耐えられなかった。
自製のコマセを派手に海に吐き散らし、薄暗い船室で寝ているしかなかった。少なくともそこが
安息の場所だったのだ。父は喜々として竿を2本か3本操り、イワシやサバを大量に釣り上げていた。
僕が空でようやく持てるクーラーボックスがふたつ、帰りには満杯となった。
「今日は300匹近く釣れたぞ」と父が声をあげたのを覚えている。
そんな縁が葉山にはあって、広告が気に留まった僕は父と母に「葉山でバイトがあるんだけど
行ってもいいかな」と尋ねた。「どんな仕事だい?」と父が聞くので、
「電話して聞いてみる」と答えた僕は、新聞広告に記載の番号に電話をし
「あのー、新聞見たんですがどんな仕事ですか?」と尋ねたのだった。
小池商事と名乗った先方は「あ~、海でだね、焼きトウモロコシやアイスを売る仕事ですがあ」と
抑え気味なガラッパチな声で答え、「日給は8,000円と書いてありますが」との問いかけには
「歩合制だけど1万以上稼ぐのもいますよお」と、こちらの意欲を掻き立てる答えが返ってくる。
そして「いつから来れますかあ?」と畳みかけてくるものだから、僕は
「はっきりしたらまた電話します」と、とりあえず電話を切った。
父と母におおまかな内容を伝えると、父は「テキヤだなぁ」と軽く微笑みながら
母と僕に視線を送り「やりたければ、やってみな」と背中を押してくれた。
「テキヤってなに?」と聞くと「露天商といってヤクザとは言えないが、まぁ、そんな人たちだ」と
父が微笑みながら言った。
「露天商? やくざ?」と少々、頭が混乱したが「日給8,000円上、1万以上も稼いでいる人もいる」
が寄り切りの決まり手となった。多少の危険はこの際、捨ておこう。
何より父が「やってみな」と言うのだ。
子供を本当に危険な世界に送り出すはずがない。それが親心というものだろう。
やり遂げればそれだけの見返りがあると、父も保証してくたようなものだと受け取った。
僕は「よし! 8,000円が20日としても16万円だ」と算段をして、「AR50が買える。
改造費も稼げるかもしれない!」と有頂天となった。マネー・フォー・ナッシングと、おさらばだ。
小池商事に再び電話をし「先ほど電話をした内田です。バイトしたいのですが」と伝えると
「あーー、そう。いつから来れますかあ?」と抑え気味のがらっぱち声が聞いてきた。「明後日からで
大丈夫ですか?」と答えると「いいですよお。部屋もあるしね、荷物は着替えだけ、
海水パンツと半ズボン、シャツとパンツ、そのくらいあれば大丈夫だからあ。4世話するおばさんがいますからああ。ほんとにぃ、それだけでいいですからあ」となんだかガラッパチ声の抑えが
なくなって来たぞ??と思いながらも、
どうやって行けばいいのかをメモを取りながら聞きとり、受話器を置いた。
初めての日給8,000円以上の!アルバイトとともに、僕にとっては初めて何週間も親元を離れる、
冒険の旅だったのだ。