姉上様と異世界の旅人
ああ。僕は日常を愛する。『力』ゆえに日常を極めて愛する。野良猫の闊歩する通りを愛するし、愛犬との散歩を楽しむ御婦人方を愛する。限りない労働を繰り返す大人を愛する。恋人と睦みあう二つの手を愛する。そしてその姿を描き出した人類の全ての芸術を愛するものだ。
ああ。僕の日常は無残にも打ち砕かれた。一人の魔女の出現によって。僕の甘い夢想は打ち砕かれたのだ。世界を旅する旅人に安息の地は無いとでも言うのだろうか。僕は全ての世界がまじりあって何が形を取り何が形を取らないかも分からないような世界の悪夢を予想するだろう。ああ。安息の地は我が家にしかない。この僕には、放蕩者の旅がらすであるこの僕には帰る家は我が家ただ一軒しかないのだ。そうだ。唯一の宿。家に帰ればもう安心なのだ。食事とTVと勉学が僕を待っているのだ。そうだ。僕の胸には希望の光が滾々とわき出て来ていた。そこにはダイニングキッチンがあって、母さんといつものように食事し、時々父さんとも食事するのだ。そして時々は僕の前で超能力を隠そうともしない姉上とも。それは嫌なことではあるが、今となって貴重なものでもある、『食事』を共にするはずだった。ああ。僕の願いがどれほど深いものであるか。諸君には分かるまい。吾輩は人であるのだ。名前などはとうにもっていて、時折くしゃみでもしながら、刻苦勉励の合間をぬって寒い夜空に月を見上げて歌でも歌える程度の人でありたいのだ。
「…ああ。客人よ。世話になっている」
魔法だった。口づけは正しく魔法だったのだ。
ああ。僕の日常は無残にも打ち砕かれた。そこにはゴスロリファッションに身を包んだエメラルド色の瞳をした女神が姉上とともに仲良く歓談しながら食卓を占拠していたのだから。ああ。安息の地は我が家にしかなかったのだ。この放蕩者が帰還するのはあまりに遅すぎた。全ては過去のことであったのだ。そう遅すぎた。僕には時間が無かったのだ。
「勇作。今日から母さんと父さんとで単身赴任の別居家族になることになったから。そこのところ。よろ」
追い打ちをかけるように非日常的なことを述べる姉上。ああ。僕の理性はもうついて行けませぬ。堪忍。堪忍しておくれ。
「勇作。ねえ、この子、勇作の知り合いにしてはいい子よね。私のチョーノーリョクのこと信じてくれるし」
姉上は上機嫌に言葉を継ぎ足される。全く持って堪忍。堪忍。人間堪忍が第一でございませう。
「姉様。姉様のことを疑う人間がどこにいるというのでせう。唐突に母さんと父さんが単身赴任で別居家族になるなどということを起こせる人間がいるとすれば、それは姉様だけでせう」
「は。一体、何で旧字体なのよ」
「吾輩は猫になりたい…」
全く。猫になりたかった。ゴスロリの女神が食卓に並ぶ野菜サラダをひょいひょいと口に運んでいくのを見ながら、吾輩はこんな冗談な世の中なら、全く猫にでもなって冗談まみれで暮らしたいとふと思っていた。
「ふーん。ならなれば。私はそう言った冗談は嫌いなの」
「ああ。たけくらべ、横町と本町。一体どちらの竹の丈が高いのでせうか」
「しつこいわよ。勇作」
「分かった。分かったよ。姉ちゃん。降参だ」
姉上は鶏肉の手羽先を肉汁滴らせながら口元でしゃくしゃくやり始める。全く、そんな風だから太るのだ。げんなりとして体重計のことを眺める僕を見て、姉上はこうおっしゃると来たものだ。
「肉は別腹」
「…はい。そうですね」
その間も女神様は野菜サラダに夢中であられるのだが、その合間をぬっては僕と姉上の間を視線鋭く観察して、困ったような、面白がるような、それでいて冷淡なような顔を作っては消し、作っては消しとやっていた。
ああ。そうですとも。世界を旅するときに僕が投げかけてやる視線とはこういうものだったのかと得心がいった。全く無粋だ。自分たちの方が観察され干渉される立場に立たされてしまうと何だか、今までの行動を全て再検討してみたくなってしまうのだ。それは再検討してしまうと実にこっぱずかしいものではある。訳知り顔で見知らぬ世界に入り込んでそのまま居座って自分の好きな時に去って行く。わがままも、厚顔も、一体ここに極まれりという恰好だ。
「客人よ。客人の姉上はとても強力な力を持っておいでだな」
「…はい。そうですよ。天空の司書殿」
「客人。名は?」
「八家勇作。そちらは」
「天空の司書」
「それだけでは困るんですよ。こちらの世界では」
天空の司書。それは確かに強力な神の一柱であった。見分したところでは確かに一つの世界の主神でもあった。だが、この仮初にも現世とも言える限りなくリアルに近い世界では、それだけでは不十分であった。
「でたよ。また、勇作の作り話が」
姉上の嘲笑はいつものことだ。この姉上も全く困ったものだ。確かにそこにあるというリアル性を持って僕の姉上でもあるのだが、この人だけは、僕の『力』を持ってしても改変させることができず、常に世界の中心にあるような顔をしている余りに強力な超能力者だった。それはどうやらもう魔法に近い勢いだろう。運が良いなどという言葉では言い尽くせないようなことが、この姉上の周りでは多すぎるのだ。
「姉ちゃんもどうしてそうなのさ。自分の超能力は信じる癖に他人の『力』は信じないではこちらとしてもどうしょうもないぜ」
「はいはい。分かった分かった。お前は世界を旅してまわる放蕩者だよ。本当にな」
「はいはい。姉ちゃんは旅してまわる世界すら必要ないくらいにね、世界の中心だよ。本当にね」
「にしても、天空の司書か。いいね。イカレてて」
急に話題が降ってわいたゴスロリ姫はきょとんとしたような顔で姉上のことを眺めていた。一体、今の言葉が通じたかどうか。通じたとして、ニュアンスまでもが通じたかどうか。そのニュアンスは悠々人世代は前のニュアンスで、悪意などは、そう、悪意などは全くないのであった。
「イカレてる?」
「ん。つまり、最高にいかしてるってことさ」
そう言って姉上は立ち上がるとゴスロリ女神の綺麗な頭髪をくしゃくしゃにかき混ぜて見せた。手羽先の油まみれの手で…。
「でもなあ。確かにいかしてるだけじゃあ駄目だね。名前が入用だ」
「名か。残念だが御名は語れぬのだ」
天空の司書殿は極めて残念そうな表情でそう口にすると、ティッシュペーパーを二、三枚抜き取って髪にこびりついた油をふき取りにかかる。
「御名か。みなねえ。んー、そう。みなねえ。ミーナ。美奈。そうだね。それでいいさ。それでいこう。八家美奈。な。あんたさ。それでいいだろ」
姉上はそういうところ本当に適当だ。父さんと母さんは二人なのに単身赴任ときて、その上突然、この見ず知らずの女神様を家で引き受けると来たものだ。
「姉ちゃん。だけど金は?」
「そうだなあ。それだけは弱るんだよな。金だけは浮世の習いと来たものさ。私の大大好物の肉を減らせば何とかは…」
「何。金か。それならば…」
この女神様何をするかと思いきや、野菜サラダが載った皿を手に取ると一言つぶやいて見せる。
「カーネルはカーネルへ。ディメンションはディメンションへ。カーネルのディメンションよ、新たなる層を示せ」
その途端ただの陶器の皿が金色に輝いたかと思うと、全く、それは無法だった。無法にもほどがあろうというものだ。やるに事欠いて錬金術の核融合と来たものだ。エネルギーの保存則を無視するにもほどがあるのだ。そしてため息をついた後に言う言葉に至っては言うに事欠いて、
「おかしい。この世界では金までが限界、か」
ときたものだ。
全く、今日と言う一日だけは、平凡を心から愛し、猫にでもなってにゃーにゃー過ごしたいと願う吾輩の優雅なる昼下がりは、全くにして乱されて、普段は不断に不動なる姉上でさえ、取るものも取りあえずのご様子だ。金の皿に見入っている姉上さえもが乱されていては、全く持って我が平穏なる安らぎの家は失われてしまうわけだ。だが、これまた、どうしたことだろう。僕は昨日と今日との間に横たわる長い川によって、そうして、こうして、ああして、それからどうしたの、という内に、知らぬ間に、新しい家族を得て抱え込むことになってしまったのだった。