奥方様と呼ばないで
ミズキは右手の手袋を外し、ユリウスに向けた。
「あの時なぜ、私にこれを? これは何ですか?」
手のひらを彼に見せて、問う。
この右手にある、眠る瞳の模様、これは何?
彼は顔色も変えずミズキの手のひらを、そしてミズキを見た。
彼は自分の左手に嵌めていた手袋をはずすと、ミズキに向ける。
そこにはミズキの手のひらの模様と同じ、目を閉じたまぶたの姿があった。しかし、次の瞬間その目が開いた。
「っ!」
自分の手のひらに開くあの目と同じだった。
ミズキの右手からそわりぞわりとしたものが這い上がってくる。
そっと自分の手のひらを見ると、ミズキの手のひらの目も開いていた。
ドクンドクンと手のひらに心臓があるみたい脈打つ。それに熱い。
―――……なに、これ。
右手が彼の左手を求め伸びていく。そこにミズキの意志など介していないかのように。
彼の左手も伸びてきて、触れ合った瞬間、ブワッと全身に震えが走った。
まず沸きあがったのはどうしようもない喜び。
失っていた何かが満たされたような、欠けていたものが戻ったような、とてつもない喜び。
だが次の瞬間、それは全く違う種類の震えに変わる。
ぞくぞくとした甘い疼きがミズキを襲った。
「……っゃあ」
ミズキは怖くなって、とっさにその手を振りほどいた。
まだ背中に残るぞくぞくとした震えは、ミズキに切なく甘い、今まで知らなかった感覚を植えつけた。
もっと味わいたい、けどなんだか怖い、しかし、かなり嗜好性が高いもの。
彼のほうも一瞬驚いたようだったけれど、次の瞬間壮絶に怪しく美しい笑みを浮かべた。
「これほどとは、な」
笑って自分の左手を見る。
「……どういうことですか? これは、なに?」
ミズキがまだ覚めやらぬ感覚に頬を紅潮させながら、それでももう一度尋ねると、彼は自分の左手をミズキに向けながらあっさり
「これは、ランドルフ家が守り継ぐ盾の聖霊獣の紋章。そしてお前の手にあるのは、この聖霊獣の対である剣の聖霊獣の紋章だ」
―――だれか、今の言葉を全力で否定してくださりませんか?
ミズキの頭は真っ白になった。
まさかそんなものが自分に宿っているなんて思いもしなかった。
だが、それでこの屋敷の者たちがミズキを奥方様と扱うのも無理がないと合致もした。対の聖霊獣を宿すというのは、つまりそういうことだからだ。
しかし、合致はしてもそれを納得するかどうかは別問題だ。
―――いや、そもそも私は対象外じゃないのか?
ミズキの中に別問題がぐるぐる渦巻いた。
学生時代の女の子たちの会話がリフレインする。
対の聖霊獣は次世代の稀人を作るために、ふさわしい魔力を持った人物を選び出すといわれているはずだ。
「いや、それ何かの間違いでしょ? そもそも私、何の魔力もないんですが? 幼い頃はともかく、今はほとんど魔法使えなくなってるんですけど! それこそ入門的な初歩の初歩の魔法まで全く使えない」
ミズキが手を横に振りながら全力否定する。
だがそれも
「お前に魔力がないわけではない。たんに、お前の右手のそれが目覚めるために、おまえ自身の魔力を貪り食っていただけだ。だからそれが目覚めた今はもう大分魔法が使えるようになっていると思うが」
彼はさらりといった。
「……」
「疑うのなら、結界を引いてやるから試すといい」
彼はそういうと、自分の左手を上に向けた。そして「エイシス」と、手に向かって呟く。
その手からぱああっと柔らかな光があふれた。
瞬く間に今いた美しい部屋から、ミズキと彼だけが灰色の薄暗い壁の中に閉じ込められてしまう。
「どんな魔法だろうと遮断する。好きにするといい」
そこまで言われてミズキはため息をついた。
これで使えなかったらどうしてくれよう。
ミズキは心の中で毒づきつつ、両手を自分の前に掲げた。
「火精、我はねがう。ほのかに輝き、優しく照らす火球、召来」
ためしとばかりに呟く。
これまではどんなに強く集中して頑張っても親指の先ほどの火球しかできなかった。
が、今回はほんのためしとばかりのミズキのねがいに応じ、ミズキの顔の倍以上もある大きな火球ができた。
その光が優しくあたりを照らし、はっきりと彼の表情もミズキに見える。
まさか、こんな大きな火球ができるなんて思ってもいなかった。
「……」
ミズキはぼんやりと光る球を見つめた。
―――もしかすると、またできるかもしれない。
「光臨、召・白雲、形・小鳥」
ミズキはいくつかの呪文を省略して繋げた。
彼女の手から光がこぼれ、それが輝きながら白雲になる。やがてそれはなにやら形をとり、最終的に小鳥の形になりふわふわとあたりを飛んだ。
輝く白い小鳥。
小鳥はミズキのまわりを飛びそして彼女の肩にとまった。
ミズキは小さく笑んだ。
「久しぶりだね」
幼い頃、祖父に教えてもらって一番大好きだった魔法。
友達のような存在だった魔法の小鳥。
魔法を失ったときに、二度と作り出せないと思っていた。
「……レイノール家の伝令鳥か」
ユリウスの問いに、ミズキは頷いた。
伝令鳥は家によって決まっている。
王家だと白鷹、ランドルフ家だと白梟。
作り方構成は、それぞれの家によって魔力の加減が違うため、同じものは作れない。
特に白の色を持つ伝令鳥は、光の魔法が入るため扱いが難しく、持つことが許される家はそう多くない。
ミズキはその白い小鳥をふっと息を吹きつけ消すと、ユリウスに向かって頷いた。
「もう十分です。確かに、魔力が戻っているようです」
ミズキがいうとユリウスは首を横に振った。
「まだ見ていないものがある」
「は?」
「お前の中の刀を出してみろ」
ミズキは首をかしげた。
ユリウスが何を言っているのか一瞬わからなかった。
ランドルフ家につれてこられた際、荷物は一つも持っていなかった。
剣など持っているはずもない。
だが。
「その右手にあるのは剣の聖霊獣だといっただろう。それを出せばいい。名前を呼べば出るはずだ」
ユリウスにもう一度言われてミズキは自分の右手を見た。
そもそもコレに名前があることも知らなかったのに、急に名前を呼べと言われても……。
しかし、昨日、教会裏の森でミズキは呼んだ。昔から知っていたような気もする。
―――そうか、これの名前だったんだ。
「セウス」
ミズキは右手に向かって呼びかけた。
瞬間、右の手のひらの目玉がぎゅるんとミズキを見つめ、嬉しそうに瞬いたかと思うと、手のひらからパアアッと白く青く輝く光があふれ出た。
続いてそこから細身でしゅうっと長い棒が出てきた。
ユリウスがそれを手に取り、左右に割ると、美しい波紋の、鋭い刃が煌いた。この国の騎士たちが持つ主流の形は幅広で両刃の両手剣、あと細身の片手剣だ。しかしこの刃は片刃で刀身は美しいほど反っていた。
「これがセウスの剣だ。これで切れない魔はいない。切れないものもない。人も魔も結界も」
「結界も?」
ミズキが問うとユリウスが頷いた。
「ああどんな結界も、だ。化け物がはったものも教会のお偉方が固く結んだ結界でも、全く関係がない」
ユリウスはそういうとミズキに剣を差し出した。
―――だから、あの結界が破れたのか……。
ミズキがそれを受け取ると、しげしげと眺めた。
しっかりしたつくりで結構な大きさをもっているから、一見かなりの重量がありそうに見えるけれど、まるで重さを感じない、羽のように軽い剣だった。
「俺とお前には、重みを感じない。今、この剣を使えるのは俺とお前だけだ。他のものが使おうとしても触れることもできない。そして『エイシス』」
彼が自分の左手に向かって呟くと、同じように光があふれ、そこにまあるい球の一部のような盾が出てきた。
「これは守りの力が強い。とても。攻撃されても何もかも跳ね返すし、とても強固な結界を張ることもできる。何にも破られることのない守りと結界を……な」
説明を聞きながら、ミズキはふと気になって眉を寄せた。
「結界でも何でも切れないものはない剣と……何にも破られない結界を張ることができる盾……?」
ぼんやりと呟くと、ユリウスの唇が愉しそうに上がった。
「そうだ。矛盾しているだろう? 最強の剣と、最高の盾」
ユリウスはそう呟くと、エイシスをミズキの手に乗せた。
それもまた、頑丈でとても重そうな外見とは裏腹に、羽毛のように軽い。重みなどまるで感じないものだった。
きっとこれもまた彼と自分しか使えないのだろうと理解する。
「世界は一面ではない。裏と表、男と女、生と死、相反するものが溢れている。だからこそ、理解できず憎しみあい、あるいは惹かれあう」
最強の剣と最高の盾、相反するものが対の聖霊獣というのも、やはり相反するからこそ、逆に切って離す事のできない存在だからか。
最強の剣と最高の盾がもし別々に敵対すれば共倒れになるけれど、味方につけばこれ以上頼もしいものはない。
「だからといって1つの身に2つの聖霊獣を持ち続けることは、力自体が相反するゆえ最高の力は発揮できないし、宿主が消耗するので危険だ」
ユリウスはそういうと、ミズキの手にのせていたエイシスを取り上げた。
羽のように軽かったはずなのに、ミズキの手にはかなりの疲労感があった。
「4家に生まれ、聖霊獣に指名されると、最初は2体とも1つの体に宿す。その間宿主は両方の聖霊獣を使うことができるが、両方を同時には使えない。そのうちどちらかが対を探してそちらに鞍替えする」
―――鞍替えされたのが、私ですか?
ミズキは自分の手の中の剣を見つめた。
ミズキの疑問に答えるかのように剣がほんのり輝く。
―――いや、その理由が分からないんですけど。
ミズキは心の中で独白した。
しかしそれにしても、いくら重みを感じないからといっていつまでもこの剣を出すのは意外と疲れるのではないだろうか?
「ちなみに、この聖霊獣のしまい方は?」
ミズキが問うとユリウスは右手に持ったそれに左手をかぶせるようにして手の中に消してしまった。
やってみろとばかりにミズキを見るので、ミズキもセウスを鞘にしまうと右手でセウスを撫でるように沿わせた。するとそこからどんどんミズキの体に飲み込まれて消える。
これまでの常識からいくと考えられない光景だ。
完全に手が元通りになるとユリウスはパンと手を叩いて結界をといた。
先ほどの部屋が何事もなかったかのようにミズキたちを迎える。
そんなに長く立ち話をしたわけではないはずなのに、かなりの疲労を感じミズキは椅子に背を預けた。ユリウスもまた長い足を優雅に組んで椅子に座る。
ミズキはすっかり冷えてしまった紅茶をゴクリと飲み干した。
冷めても花園の味は消えなかった。
「……私は、これからどうなるのですか?」
ミズキは力のない声でユリウスに問うた。
本当は聞かずとも分かっている。
ランドルフ家の聖霊獣と対なる聖霊獣を宿すということは、宿主もつがう。
さっきユリウスが言ったように、近く、ユリウスと結婚するということだ。
そりゃあ、いつかは誰かと結婚したいとは思っていた。
司祭にも2種類あって、一部では生涯独身を貫く部署もあるけれど(そしてなぜか世間一般によく浸透しているのはこちらの部署)、これから進む役職によっては婚姻許可のある部署もあるのだ。むしろそちらのほうが多い。
いずれは、誰かいい人が出来て、想い想われ、将来共にある喜びを分かち合える相手にめぐり合えれば、結婚もいいと思っていた。
だからだろうか、抗えないものを宿したから、あなたはこの人と結婚してねというのは、どうも腑に落ちない。
本人たちの思いはどうなるのだ。
向こうにだって好みはあるだろう、こんなのが相手って思われてたら気の毒でしょうがない。
「そもそも、ある日突然、全く好みじゃない人間と結婚しろって言われて、はい結婚しますといえるんですか? たとえば好きな人とかいて、でも聖霊獣が選んだからそっちって、自分も辛いだけじゃなく相手にも失礼な気がしますけど」
ミズキが続けて問うと、ユリウスの眉がピクリと動いた。
「……つまり他に好きな男がいたから俺との結婚は迷惑だ、と?」
「いえ、私にそういう存在などいません。私の話じゃなくてあなたの話です。世間一般的に……いや聖霊獣を守り続けてる稀有なおうちの方々的に、自分の将来の相手を聖霊獣という第三者に勝手に決められるのは許容範囲内のことなのですか、と聞いているんです」
ミズキが尋ね返すとユリウスは眉間に深くしわを刻んでいた。
「……どうにも気に入らなければ対の聖霊獣を宿したものを目覚めないうちに殺せば、戻ってきた聖霊獣が次の対を探してくる」
ミズキの質問に返答はしてくれるものの、その声はいささか低い。「よその国では、それをしたバカな男がいたそうだが、聖霊獣が次の対を探しきれず、その聖霊獣が次世代に引き継がれず、消えてしまったという話がいくつか残っている」
―――なるほど、次を見つけることができない場合もあるわけだ。
ミズキはふうんと頷いた。
ただ国としては聖霊獣はできるだけ多く保持しておきたい。いざとなるとかなりの力になるからだ。だから、聖霊獣に対として選ばれたものはそう無碍にしないよう、国から言い含められているかもしれない。
―――私だって死にたくはないけれど、自分を好きではない人と結婚するのもどうだろう。……私は、彼を思うかって言うのも……どうだろう。急に言われても、そりゃアカデミーの時はどこかでまた会えるかもってどきどきはしたけど……嫌いじゃないとは思うけど、そういう意味で好きっていうのとは違うように思う。
憶測を深めていたミズキは、ふとユリウスを見た。彼はまだ不機嫌さを含んだ目でミズキを見つめていた。
―――なんか、まだ怒ってる?
「……話を続けるが」
やはりまだどこか怒気を含んでいる低い声音に、ミズキの背に冷たいものが走る。
「この剣と盾の聖霊獣は飾りではない。身に宿したからにはそれに応じた義務を果さねばならない」
ミズキは一瞬眉根を寄せた。
宿したくて宿したものじゃないと文句を言いたいがとりあえず、ユリウスに一通りの話を聞くことにして黙る。
「ランドルフ家の稀人は必ず幻獣討伐部隊に属し、王国を脅かす敵からこの王国を守らなければならない。つまり剣の聖霊獣を宿したお前も、例外なく、これからは俺の部下として戦地に出る」
そう断言されてさすがにミズキはユリウスに待ったをかけた。
「お言葉ですが、いくら聖霊獣を宿したとしても、私に戦いの経験はありません。アカデミーで受けた軍事教練も基本のみで、実戦に出るには不安があります」
「それくらいはわかってる。鍛錬しろ」
ユリウスはそっけなく言い放つ。「明日から毎日、隊に出頭しそこで今の体に慣れろ」
問答無用の勢いでいわれて、ミズキは痛む頭を抑えわかりましたと頷いた。
それで話は終わりとばかりにユリウスが席を立つ。
ミズキも慌てて席を立つと、ユリウスはミズキの前に立った。
おずおずと見上げると、ユリウスが左手でミズキの右手をとった。
「っ」
一瞬で体中を駆け巡る抗えない熱に、ミズキの体が竦む。がくがくと足が震え、動悸が早くなり息もあがる。瞬く間に顔が火照った。
いや、顔だけじゃなく体中が熱い。
「あっ」
手を繋がれたまま、もう片方の手で顔のラインをなぞられて、ミズキは突き抜ける震えに声をこぼした。
今まで出したこともないような甘えた声に、自分でも驚いた。
「お前は結婚に理想を抱いていたかもしれないが……」
耳元にユリウスのかすれた声と呼気がかかり、ぞわぞわしたものがまた熱になってミズキの体の奥をじんとさせる。
ユリウスの呼吸も熱っぽく荒い。
「俺はこれ以上ほとんど待つ気はない」
すぐ目の前で自分を見る夕闇色の瞳が、艶を含むことに気付き、ミズキは胸が熱くなるのを感じた。
ユリウスの熱い手がミズキの顔を捕らえ、その夕闇色がまぶたに隠れるのを見て、ミズキも目を閉じた。
初めての口付けは柔らかく、甘いものだった。
さっきまでの甘い疼きやどきどきが嘘みたいに落ち着いたものに変わる。
優しく暖かいもの、ずっと欲しかったぬくもりにふれた気がした。
その唇が離れるのにあわせて、ミズキも閉じていた目を開けると、ユリウスの瞳にさっきまでの熱はもう、残っていなかった。
―――どうしよう、嫌じゃなかった……。
ミズキはユリウスを見つめながら胸もとを押さえた。
―――どうしよう、すごく、落ち着く……。
でも、この反応もまた、対の聖霊獣によってもたらされているのだろうと思うと悲しい。
自分の気持ちが置いてけぼりになっているみたいで、悲しい。
でもそらすことなくユリウスを見つめ続ける。
「たぶん、やっぱり私はあなたの対なのでしょう。でも……」
ミズキの声が詰まる。涙声になっていた。
ミズキの頬を伝う熱い涙を、ユリウスの親指が掬い取った。
「私はずっと心から思う人と一緒になりたいと思っていた。だから急に私があなたの聖霊獣と対の聖霊獣を宿したから結婚をと言われても、納得できません」
ミズキの言葉に、ユリウスが小さく口元だけで笑う。
ミズキがそういうのを分かっていたというような表情だった。
「レイノールは昔から熱烈なロマンチストを多く輩出してきたのは有名だが、お前も例に漏れずというわけか」
ユリウスはそういって、親指に絡めたミズキの涙を自分の唇に含む。
先祖がどうだったか、ミズキは知らない。
でも、ずっと両親がしてくれたこの国の御伽噺はどれもがミズキの理想だった。
大好きなお姫様が隣の国の王子様と結婚する話が持ち上がり、ならば姫様が幸せになれるよう頑張った魔法使いが、最後そのお姫様と結ばれて幸せに暮らしたという話も。
王子様のお供に選ばれた魔女が、共に幻獣を倒し、その後この国の王妃様になったという話も。
薬剤師の女の子が、病弱だった男の子を一生懸命お世話し、元気になり立派に家を継いだ男の子と結ばれて幸せに暮らしたという話も。
どのお話もこの国では有名な御伽噺。
そんなお話を繰り返し聞いて、仲の良い両親を当たり前に見て育ったミズキだったから、自分もそうなりたいという理想を持っていただけだ。
「……あと十ヶ月ほどだな。1年もは時間をかける気はない」
ユリウスの言葉にミズキは首をかしげた。
どういう脈略があるのか全く意味がわからない。
ユリウスは、右手でミズキの艶やかな黒髪をすいて、手をすべる感覚を一通り楽しむと、再び髪を掬い取って指に絡めた。
その意味ありげな行動と彼の指先の動きに全身系が集中する。
ミズキの顔のすぐ前まで、美しい顔を近づけると
「結婚式の日だ。それまでに決着をつけておけ。それ以上はもう待たない」
妖艶に笑んでいう。
ぞくっと震えが背筋を突き抜けるほどの衝撃だった。
そしてミズキに見せ付けるようにミズキの髪を、つかんだ親指の腹ですり、
「それまでにお前を全力で口説く努力をしようか」
夕闇色の瞳に愉しげで壮絶な艶をのせてミズキの瞳を射抜きながら、ミズキの髪に口付けた。
突然の行為に、ミズキの顔が真っ赤に染まる。
ユリウスはふふんと笑うと、足早に部屋から出て行った。
遠のく足音を聞きながらミズキはその場にぺたんと座り込んだ。
―――っ!!!
今ユリウスが触れた髪と唇を手で覆う。
―――お、く、口説くって……!
すでにどうにかなってしまいそうな熱を感じてミズキはソファに突っ伏した。
すると、あの美しい男に触れられてしまった事に恥ずかしさがこみ上げてきた。
じたばた手足をうごめかせたいけれど、さすがにそれはどうにか自重する。
しかし、忘れようと、口元を手で覆ってしまえば余計にユリウスの感覚がリアルによみがえった。
思った以上に柔らかかったな、とか、触れ方が優しかったな、とか……甘かったな、とか……。
―――いやいや!!!
ミズキは手で大きくそれを振り払うけれど、なんだか頭が完全にのぼせ上がってしまって、ショートした。
すっかり疲れて再びソファーに突っ伏す。
―――あと十ヶ月。
さっきユリウスが言った言葉を思い出した。
どうにもこうにも十ヶ月先でミズキが彼の花嫁になることは確定しているらしい。
対の聖霊獣を宿しているからわかるけれど、わかるけれど、でもやっぱり抵抗が残る。
だからあと十ヶ月で、彼に口説き堕とされてしまうか、今抱いている抵抗をどうにか見切りをつけろということだろう。
どういう見切りになるのか、わからないけれど。
どうにもこうにも、結婚することが確定しているのなら、堕ちる堕ちないとかではなく、せめて多少は彼を好きになりたいし、彼にも自分のことも好きになってほしい。
それはこれから毎日、剣の練習をするよりもずっと途方もなく大変なことに思えた。
はあ。
ミズキはソファにもたれたまま目を閉じた。
いろいろありすぎて眠気が忍び寄ってきていた。
『ミズキ、自分を好きになってもらうときどうしたらいいと思う?』
幼い頃の母の声が耳のなかによみがえる。
それはいつかの記憶。たしかミズキが近所の子どもたちと喧嘩をして嫌いと言われて泣いた日。
ああ、あの日の記憶だなって冷静に思い出す自分に苦笑いしつつ、夢の中だとわかっているのに久々に見る母の姿が嬉しかった。
『まず、自分から相手のいいところを探して、そこを好きになるの』
―――なんだか存在からすべてがすごすぎて畏怖しちゃうかも……。
夢の中の母親が苦く笑う。
『ミズキ、嘘の自分を好きになってもらってもいけないわ。嘘は相手を傷つけるし、自分も苦しめる。あなたはそのままであなたらしく精一杯しなさい』
―――……まあ、嘘はよくないよね。飾った自分も想像するだけでいやだ。
『でもね、結局、好きになるときは何をしても好きになる。突然落ちちゃうのよ。抗いようもなく、ね』
夢の中の母親はそういって笑って消えた。
―――え、いや。おかーさん? そんな……。
夢の中でも途方にくれながら、ミズキは眠りに落ちた。