表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ノウン

作者: 川崎真人

 アクセスありがとうございます。

 少女の悲鳴が部屋にこだまする。

 これは背中に火を押し付けられる時の声だ。俺は冷たく暗い部屋の中で膝を突いてはそう考える。少女の真っ白で平らな肌に押し付けられる熱した煙草。黒く刻まれる痛ましい傷跡と、泣き叫ぶ少女のいたいけな表情を想像する。

 もうすっかり聞き分けられるようになった。頭を殴り付けられた時の声、腹を蹴られる時の音。本当にひどいことをされる時には、悲鳴の前に鳴き声でわめく。ごめんとかいやだとか、そんな稚拙な言葉で父親に懇願しようとする。全て理解できる。

 俺は泣き叫ぶ少女の名前すら知らない。けれど、この悲鳴を聞いたことがあるのは世界に俺一人だ。彼女が虐待されているのを知っていて、救い出すことができるのは俺一人だ。

 強くそう思ってしかし、俺は電話一本ないこの部屋から出られないでいる。


 引きこもって一年がたつ。

 大学に入ってから外に出なくなった。二階の部屋で両親の物音に怯えながら膝を丸めて過ごしていた。

 そんな俺の唯一の幸福は、床につく前の午前八時ごろ、家の前を通り過ぎる小学生の姿を見下ろすことだった。彼らは元気一杯に愛らしく振舞う。その姿は暗く矮小な世界にはありえないくらい美しく、感動的なものだった。

 中でも一番俺がかわいらしいと思うのは、隣の一軒家から出てくる遅起きの女の子だった。利発そうで笑顔が天使のようで。真っ赤なランドセルを小柄な体に引っ掛けた姿を、俺はもう何枚も写真に収めている。

 小学生たちを観察し終え、九時が近付いてきたあたりで俺は布団に入る。その頃には両親も揃って仕事に出かけていて、俺は安心して眠ることができた。目を覚ますのは午後七時ごろ。この頃になると、母親の料理が部屋の前にそっと置かれている。

 そんな生活を続けていると、ある時俺はどうしようもない不安感に押しつぶされる。その場でもだえてのたうって消え去りたいような気持ちになる。俺は眠ることができなかった。

 申し訳ない、とかみじめだ、とか。このままじゃダメだとか外に出たくない、とか色んな思いがアタマの中を取り巻いて、気がつけば午後の一時。俺は無償にあの小さな天使に会いたくなった。だらだら布団を置きだして、窓の前で彼女を待ち続けた。

 まばらにやってくる子供の群れ。俺は期待に胸を躍らせる。

 午後四時。子供が少なくなってくる。上級生ばかりの時間帯なのにあの子はいまだに姿を現さない。胸を絞られるような心地になった頃、ようやくその子が姿を現した。

 酷く浮かない顔をしていたように思う。下を向いていつも以上に小さな歩幅で、家に帰るのを拒むようにとぼとぼ歩く。どうしてそんな顔をするんだと不安になった。毎朝友達と見せる、解き放たれたような笑みはどこに行ってしまったんだろう。そう思うと胸が張り裂けそうな思いがした。

 少女が家の中に入っていく。

 ほんの数分の、しかしすさまじく長い静寂が訪れる。俺が息をのんだと同時に、怒り狂った男の声がした。

 「おめぇなんか生まれてこなけりゃ良かったんだよっ!」

 薄い壁一枚隔てて届いたその声は、俺の耳にこびりついて離れなかった。全身に鳥肌が立ち、失禁しそうに身悶える。自分のことを言われたのでないと分かったのは、初めて聞く少女の悲痛な鳴き声が耳にとどろいてからだった。

 どたんどたんと壁を叩きつけるような音がする。俺は思わず壁に張り付いて向こうの様子に耳を傾ける。僅かに聞き取れた父親の声から、どうやら少女が部屋の明かりを消さずに学校に行ってしまったらしいことが分かる。口汚く少女をののしりながら暴れまわる父親。少女の悲鳴がする。やめてやめてと懇願する声が聞こえてくる。

 俺は僅かな興奮を抱きながらじっと壁に張り付いていた。


 それから俺の日課は姿を変えた。

 一度父親の折檻が始まってしまうと、それは夜の十二時くらいまで続けられた。俺はそれに耳を澄ませながら眠い眼を引き摺って壁に寄り添い続けた。少女の鳴き声を聞き続けた。

 少女の家と隣接しているのはこの家だけで、両親のいる一階の部屋までは虐待の音は届かないらしかった。ある日意を決して母親と話した時の情報によると、少女の父親はもうしばらく前に職を失っているようで、それでもこれまでの好人物っぷりを変えることなく、父子家庭にある娘の為に職を探してがんばり続けているということだった。

 彼女の悲鳴は二階の薄い壁に張り付かなければ聞くことはできない。あんなに殴られて罵られて泣かされて、それでも翌日になると友達に満点の笑みを浮かべる彼女の悲痛を知る者は、おそらくこの世に俺一人しか存在し得ない。

 虐待の内容は日々エスカレートしていくようだった。

 その日はまず少女が懇願する。何か失敗を見つけられたらしい少女が、父に向かってごめんなさいと泣き喚く。父親はうるせぇ黙れと少女をののしる。水をぶちまけるような音が響くと同時に、じゅわっと妙な音がして、短くも鋭い少女の叫びが俺の耳朶へと突き刺さる。

 何をしているのかと耳を澄まし続けていると、父親が少女に熱湯を吹っ掛けているのだということが分かった。どたどたと床を逃げ回る少女の様子が伝わってくる。三語に一度「おまえなんか生まれなきゃ良かった」のフレーズが飛び出すたびに、俺はその場で飛び上がるような恐怖感を覚えた。


 俺は夢を見る。

 その中で自分は現実よりほんの少しだけ精悍な格好をしているように思えた。夢の中の俺は押入れの奥に突っ込まれている野球のバットを取り出して外に出る。俺は小学生の時は野球部で四番を打つヒーローだった。俺にとってそのバッドは英雄性の象徴みたいなもので、隣の一軒家の前に立つ頃にはそのバッドは一本の勇者の剣へと姿を変えた。

 それを握り締めた俺は周囲からの賞賛を受ける。その中には中学の時一人だけできたガールフレンドとか、高校のとき好きだった女とかが混ざる。両親はその場でひざまずいて立派になった息子の姿に涙していた。俺は悪の魔王が住まう目の前の一軒屋へと入っていく。

 そこでいったん画面が切り替わる。

 俺は右手に魔王の首を持ってでてくる。それは見たこともない少女の父親のものだった。そっと手を引くと、俺が窓際で見下ろしている愛らしい少女が姿を現す。拍手喝采の人々の合間を、俺と少女は手を取り合って歩いていく。

 そうして目を覚ますたび、俺は現実の訪れに強い強い恐怖を覚えるのだった。

 母親が部屋の前に食事をおいてくる音がする。俺はその場で身を固めてどうにかそれをやりすごす。両親が揃って出かけたのを聞き分けてようやく食事に手をかける。

 もそもそとそれを食べながら、俺は少女を救いだすことを考える。

 警察に電話をしてみる? 両親がいない時間なら、勇気を振り絞ってできないことはないだろうか。しかしそうなったら後で少女はどうするのだろう。唯一の肉親である父親を失ってどうするのだろう。それに、そんなことをしたら今度こそ俺は、この部屋の中から引き摺りだされることになるに違いない。

 押入れの中に入っているバッドのことを思い出す。本当にあれが勇者の剣だったら良いのにと思う。全ての不安と不条理を吹き飛ばす勇気の剣だ。あれで少女を救ってあげられたらどれだけ良いだろうかと想像する。しかしそんなこと実際にする勇気などない。

 カーテンを摘んで窓の外を見る。

 そこにはいつもの少女が友達と遊んでいる。狂ったように叫んで踊るその姿は、どうしようもなく痛ましかった。


 何もなく過ぎていく毎日の中で。俺は何もしない。することができない。

 もう何ヶ月も外に出ていないし、何も生み出していない。ただ少女の声を聞き続けるだけの毎日。勇者になんかなれない、ゲームもしばらくやっていない。ただ膝を抱えて少女の声がするのを待ち続けるだけ。

 その日の虐待は特に酷かった。少女はいつも以上に嘆いて喚いて、なき続けては虐げられた。その尋常ならざる様子に俺は精一杯耳を傾ける。押し殺したような父親の声を聞く。どうやら少女を羽交い絞めにして何かをしているようだと察する。

 衣擦れの音がする。かちかちと金属の触れ合うような音。小さな手の中に握りこんだ大量のスプーンが触れ合うような、どこかあどけない音が響くと共に少女が絶叫をあげる。これはいつもの懇願とかじゃなくて、少女の魂の奥から搾り出されるような、悲痛を極めた地獄の鳴き声だ。

 俺は高鳴る心臓を押さえて布団に入る。明日こそは少女を救い出す方法を考えようと自分を誤魔化すままに。

 翌日朝起きると家の前で倒れた少女の姿を発見する。

 ランドセルを背負ったままで倒れた少女のスカートの中で、何か異様に盛り上がるものを発見する。その光景をまじまじと見詰め続け気がつけば靴もはかずに外に飛び出していた。

 少女のスカートに手をかける。中を覗いて俺は目を回す思いがした。

 肛門にスプーンが何本も何本も突っ込まれている。俺は昨日、隣の部屋で何が起こっているのかを理解した。


 「高須明人さんですよね?」

 ある日。俺は暗く静かな部屋の中から引きずり出される。リビングでは警察の人間らしき二人組みがいた。俺にとってその目はどうしようもなく、俺を責めているように感じられるものだった。

 「昨日……となりのお家のお嬢さんがなくなられました。わたしたちはこれを性的暴行にまつわるものとしてみているのですが、何かご存知ありませんか?」

 両親がいぶかしむような目でこちらを見る。俺が疑われているのかと思っているのか。俺は警察の目を睨み返そうとしてそれができない。そのまま目を伏せてうつむいて、小さな声でつぶやいた。

 「なんだって?」

 警察の一人が煮え切らない俺に向かって耳を差し出す。俺は今度こそ大きな声で言う。

 「何も知りません」

 読了ありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ