6 山
「ただいま。はぁー、疲れた」
事務室のドアが開く。別班が帰ってきたようだ。
「おかえりなさい。お疲れ様でした」
「おぉ、最後に一人連れてきた」
先輩が千鳥足の学生を隅に連れて行って座らせる。保護した学生を休ませるために、事務室の隅には備品の体操マットと毛布を敷いている。そこに学生はそのままくたっと身体が崩れて毛布の上に倒れこむ。ご他聞にもれず、彼も充分酒臭い。
「今日はこれで終わりだ。まあもう3時だし、だいたい静かになっていたよ。あとは朝まで鍵担当が残るだけなんだが、今日の当番誰だっけ?」
ホワイトボードに書かれた当番は、主任だった。
「あちゃー。しまったなぁ」
「私が代わりますよ。佐々木さんには任せろと言ってありますから」
「いいですか?いや、あとの2人は医療キャンパスから手伝いに来てもらっているし、俺は今夜もあるしで助かりますけど」
「構いませんよ」
「お疲れ様です」
話がまとまった瞬間に、巡回ジャンバーを脱ぎ片付けると、先輩達は素早く帰っていった。大変だったんだろうな。
私も帰ろうとすると、烏帽子様に止められた。
「女性の単独行動はダメです。送っていきます。眠いのなら、あちらのソファーで休んでいてください」
なに、まだ帰れないのか。先輩達について正門から回っていけばよかった。
こうなった以上疲れているはずの烏帽子様を働かせて、一人休めない。泣く泣くカウンターに座った烏帽子様と並ぶ。
二人で見事な朝焼けを眺めて眠気を覚ましたりしながら朝5時を過ぎた頃だった。
「すみません、うちのテントで盗難があったようなんです。どうもうちの周辺は軒並みやられたみたいで…。今から、警察に届ける予定です。お手数ですが、一緒に来てもらえませんか?」
そう言ってとあるサークルの代表者が現れた。
寝入ってしまったテント当番の荷物を狙って置引きが発生することもあるらしい。悲しいことに、今年はそれが発生してしまったようだ。
警察立会いなら、やはり私より男性の烏帽子様のほうが何かと都合がいいだろう。なにより、代表者さんの目線は、私ではなく烏帽子様に向かっている。
先ほど奥で眠っている学生さんの様子も落ち着いているのが確認できたし、ここは私一人でも大丈夫だろう。烏帽子様も同様に考えたらしい。
「環さん、ここをお願いします」
ジャンバーを羽織って出かけていった。
ううんという唸り声が後ろから聞こえてきた。保護している学生からだった。
身体をくの字に曲げて顔をお腹の方に伏せている状態だったので、呼吸を確認しようと顔を覗き込む。すると、うっすらと開いている目とあった。
「おはよう、起きた?」
と聞くつもりだったのだが、腕をぐいっと取られると抱き枕のように抱き込まれた。
その間、3秒くらいだったのではないだろうか。早業だ。
私が言えたことは
「へひゃ!!え?ちょ!!」
だけだった。抵抗する前に足は絡められ、右腕一本で抱きしめられて身動きが取れない。もともと倒れこんだ状態でバランスも悪く、こんなことは初めてだったのでガッチリ固まってしまった。
彼は顔を私の胸にうずめてきて、一人で幸せそうだ。なんだか、女の子の名前を呟いている。
「人違い!!人違いだから!!放して!!」
私のその声を聞いて、寝ぼけてぼんやりとした目が私の顔に焦点を合わせてきた。
視線があった途端、びくっとして視線をまた下げて状況を確認しようとした。
そのとき、外から何かが走ってくる音が聞こえた。ばたんとドアが開けば、烏帽子様だった。
あんなに恐ろしい顔をしている烏帽子様を見たのは後にも先にもあのときだけだった。今になれば振り返る余裕もあるが、その時は初めて襲われてテンパっている状態で、押し倒されているのを知り合いに見られたのだ。
涙目になった。
それがなおさらまずかったのだろうが、
「何をしている!!」
同時にどおんと何かが爆発するような音が聞こえて窓ガラスを揺すった。
ビリビリと鳴るガラスには構わず、烏帽子様は走り寄ってきて私を男子学生の腕の中から助け出すと、背中側から蹴りを一発いれてうつぶせにし取り押さえた。
「環!!大丈夫か!?」
腰が抜けて座り込んでいるが、大丈夫と返せば
「とりあえず、話を聞きましょう」
烏帽子様の冷たい声が聞こえた。体重をかけ強く押さえ込んでいるようで、学生からは苦しそうなうめき声しか聞こえない。
先ほどまで朝日が差し込んできて明るくなっていた空が真っ暗なことに気がついた。よく見れば、この県のシンボルとも言えるお山さんが噴火しているのが見えた。さっき何かが爆発するような音はこれだったんだ。入道雲のようなもくもくとした噴煙があがっていたが、風向きがこちらだったようで天辺付近の噴煙が流れてきている。もう今日の大学祭は降灰のせいでじゃりじゃりだなと妙に冷静に考える。灰袋を用意しなくちゃいけないかな。
そんなことを考えていたら抜けていた腰も平気になった。
すっかり目が覚めた男子学生は、烏帽子様から解放されるなり私に向かって土下座をしてきた。
「本当に申し訳ありませんでした。こんな朝早くから会うのって彼女くらいで、髪形とか色が似てたから…。何を言っても許されないと思いますが、本当に申し訳ありません」
びしっとした綺麗な土下座だった。
「…もういいです。念のため彼女の名前を言ってください。あと貴方の学部名と名前を教えてください。次はないですよ」
彼が寝ぼけていった言葉でだいたいの事情は分かっていたのだ。あの時言った彼女の名前と彼が言う名前が合えば、嘘はないだろう。そして、合っていた。
「もう目が覚めたでしょう。帰りなさい」
押し出すように事務室から出て行かせる。ドアを閉じれば、その場にずるずるとしゃがみこみたくなった。
でも、後ろに一人残っている。烏帽子様にちゃんとお礼を言わないと。
烏帽子様へ振り向くと、電話が鳴った。
「で、でます」
なぜか宣言してからとると主任からだった。
「タマさん!?烏帽子様に何があった?」
いや、烏帽子様には何もなかったですヨ。それにしてもこのタイミングでとは主任も勘がいい。
はっきり言えば、あんなこと言いたくない。でも、報告しないわけにもいかないだろう。せめて直接報告しよう。
「…あとで報告したいことはありますが、烏帽子様には何もありませんでした。ご本人に代わりましょうか」
お、受話器むしりとられた。
「烏帽子です。はい。ええ。大丈夫です。すぐに治まります。心配させてしまい申し訳ありません」
がしゃり。乱暴に受話器が置かれた。烏帽子様がお怒りになっておられる。男性と話す機会が全くなかった私としては、直接向けられた怒気ではないにしろ一緒にいるのは怖い。
助けてもらっといてなんだけど。
はぁぁぁぁ。深いため息ですね。そうですよね、疲れているところにご迷惑をおかけしてすみません。
「あぁ、やってしまった…」
えらく落ち込んでいる。
「何を?」
じっと私を見つめてくる烏帽子様。何かついてますか。
「申し訳ない。約束したのに、守れませんでした」
「さっきの?あれは驚いたけど、襲うというよりも彼女への愛情行為だったせいか、そんなに怖い思いはしなかったよ。心配しなくて大丈夫」
寝ぼけて勘違いされ抱きつかれたが、力強くも優しく抱きしめられて、そしてすぐ引き剥がされたから痴漢行為と感じる暇がなかったのだ。知り合いに抱きつかれたと思えばいいだろう。二度としないでほしいけど。
「本当に?」
「本当」
思いっきりうなずいた私を見て、若干浮上したようだが、まだいつもと違う。
「まだなにかあるんですか?」
「えぇ、自分の本業を忘れて山を噴火させてしまいました」
「お山さんのこと?でも、噴火なんてよくしてるよね」
「まあよくしてはいるのですが、今回のは一歩間違うと大変だったんです。ウチはお山さんの神社です。私に何かあるとお山さんに異変が出るのです」
だから、あの主任の電話だったのか。
あとで主任から聞いたのだが、活発な火山として有名なお山さんだが、ここまでひどいのは久しぶりだったらしい。白い噴煙をあげるだけでしばらく大人しかったのにねぇと言われた。
「環さん、ウチに来ても阿吽達を触ることに夢中で由来書とか読んでないでしょ。私にあまり興味がないですよね。こちらは好きな女の子が襲われてるのを見て、我を忘れるぐらいだったのに」
…ん?なんか変なこと言われた。聞き流したいけれど、烏帽子様がじっとこっちを見ている。
「興味がないわけでもないですヨ?あんまり突っ込んでいいのかわからないので、聞かないようにしているというかなんというか」
よし、さりげなく話を逸らそう。徹夜明けにこういう話題はきつい。頭回らないもの。
「環さん、私は…」
そんな私の無駄な努力を無視して烏帽子様は話を続けようとする。すると、がちゃりとドアが開いた。
「おはようございます」
時間はちょうど7時。当番交代が来た。
「「…おはようございます」」
部屋に漂う緊張の残滓に気づかないまま先輩は話を続ける。
「あれー。主任じゃないんですか?」
「いろいろありまして。昨日の鍵当番は烏帽子様になりました」
「へぇ。じゃあ、その色々含めて引継ぎをお願いします」
烏帽子様が昨日の主任の件や事例を引継ぎしている間に、
「お先に失礼します」
ダッシュで逃げた。またこのパターンか。