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イ 事務員


花火に興奮し、夕飯を食べた環さんは、そろそろ眠そうだ。

秋の味覚がテーマと豪語していただけあって、サツマイモの炊き込みご飯とそれは見事に脂の乗った秋刀魚と箸休めにきのこの煮浸し、最後に豚汁をつけてくれた。

生姜がきいたとても美味しい豚汁で、夜風で冷え切った身体がよく温まった。

環さんの作るものは何でも美味しい。




いつも結構宵っ張りなんだよと言っている環さんが、まだ22時にもならないうちにうつらうつらしているのを不思議に思って尋ねてみれば、なんでも朝、帰宅してから眠らずに考えていたらしい。

ずっと自分のことを考えていてくれたと聞けば嬉しいが、昨日からほぼ1日半寝ていないことになる。それはいけない。


「そろそろお暇しますね」

1Kの環さんの家は、脱衣所がない。

このままここにいれば、寝る準備をしようにも風呂に入れず環さんが困ってしまう。

いつもならご馳走になったお礼に食器を洗うくらいするのだが、早く帰らねば、そのまま眠ってしまいそうだ。


玄関が狭い。

ヒールのある靴を見ると女の子の部屋だと思う。

履いてきた下駄に足を通す。鼻緒の色が一緒だ。左右バラバラじゃなくてよかった。

また環さんが下駄を履いた自分を見て笑っている。なぜだろう?

笑っている彼女がかわいいから深くは考えない。




力を使えば、環さんの部屋からウチへはすぐだ。

しかし、今日は環さんと手をつないで歩いた道をのんびり帰りたかった。

彼女と手をつないだ左手をポケットに入れてぎゅっと握る。


まさか人から距離を置かれる自分が彼女を手に入れられるとは思っていなかった。

傍にいてくれるって、一緒に居てくれるってうなずいてくれた。

ふふ。環さんを初めて見たときを思い出す。あれからそんなに時間は経っていないはずなのに、本当に長かったなぁ。


環さんはきっと知らないだろうな。





☆☆☆


あれは、確かサークルの勧誘机が大通りから減ってきた頃だったから、5月の半ばくらいか?


全学生が選択してとる共通カリキュラム講義はなかなか面白いものが多い。

専門的な知識を必要とする学部講義とは違って、分野が幅広いし、なにより学生が全学部から集まるから面白い人が多い。神である自分に面白い扱いされるのは、不満に思う人も居るだろうが、全国から集まればやはり変人もいる。


自分は、担当地域から動けないから、遠くの話を聞けるのは楽しい。他に聞けるとすれば、10月の出雲大会議のときだけだ。それを目的として大学にもぐりこんだわけではなかったが、嬉しい副産物として受け取っている。


環さんを見るきっかけになった講義も昨年仲良くなった友人がいて、誘われたからふらりと入ってみただけだった。

1度受けると決めた講義はどんなにつまらなくても最後まで受けると決めていたが、それは5時限目の最終講義で、他の学生達はすっかりだらけていて、内容も人もすこし期待はずれだったとがっかりしていた。

あんまり暇だったから、その教室にある横から大胆に中綿を飛び出させながらも現役で働き続ける黒板消しがなぜ交換されないのか考えていたくらいだ。


限界は突然来た。

あれは断じて自分のせいではない。直前までじっと見つめていたものが壊れることなんて今までなかった。

とにかく、1つしかない中綿飛び出し黒板消しがとうとう壊れたのだ。


講義終了まであと10分で、だらけきった学生を前にして、教授も帰りたかったのだろう。

切り上げることになった。

帰り支度を整えて教室を出る前に、教授は、事務課に内線をかけて新しい黒板消しを持ってくるように連絡していた。


その教室は事務室の真上だったので、連絡を受けた事務員はすぐにやってきた。

知らない人だったので、やって来た事務員が新人だと分かった。

見るからに初々しい入りたての雰囲気がある娘だなと思った。


もうその部屋には、自分を含めた2,3人しか残っておらず、新人事務員も黒板消しを置いたらすぐ事務室に戻ると思っていた。


予想に反して、事務員はまだ板書された状態の黒板を見ると綺麗に消し、黒板周りのチョーク粉や、黒板消しクリーナーの中に詰まった粉を持ってきた袋に集め始めた。


なぜか黒板周りは大学が入れている清掃業者の担当区分ではない。もちろん教授も学生も手をつけないので、チョークの粉が層となり、厚みをなしてひどいことになっている。


事務の仕事ではないのに掃除をしている彼女を見て、今年になって、何度か黒板周りが綺麗になっていた教室を見たのはこういうことだったのかと納得した。

こういう事務員なら日中留守にしがちな自分の神社の世話を任せてもいいなと思った。


しかし、当時の世話係である佐々木氏に別段不満があるわけでもない。

年1でウチにシロアリ駆除点検とか入れてくれるし、むしろ自分では気づかないことを世話してくれるので助かっているくらいだ。

いきなり、彼女を世話係にと言っても、今までしっかりしてくれていた佐々木氏に対して悪い。

そのときはまだ保留にしておこうと思って、彼女の顔だけしっかり覚えた。







そのあと、環さんを見たのは学食だったかな。





☆☆☆


今日は何を食べようか。今月はヨーロッパフェアだ。入り口にヨーロッパ地方の地図が貼られ、さらに国名の下にも料理の写真が貼られている。日替わりで変わる写真もあるので油断できない。毎日確認しないと、見落とす。


お盆を取って好きな物を取っていくセルフ方式だが、お昼時は混雑していて悩む暇を与えてくれない。

せっかく写真があって全容が分かるようになっているのだから、フェア料理を食べるときは、最初に決めてからにしている。


英がない。1度、噂を試してみたいのだが、まだ真相は闇の中。母とどちらが上だろう?

色々迷ったが、スライスチーズの上にトマトソースがかかったイタリアンハンバーグにしよう。

これを伊料理と言ったら、伊の人は怒ると思うが、まあ安く早く大量に提供してくれる学食業者さんが考えて作っているのだから、文句は言えない。大抵、美味しいし。伊料理でナポリタン出してないだけ、今回はましかもしれない。


入り口で、ずっと写真を眺め回していては、邪魔になるので決まったらさっさと移動する。

無事にハンバーグを手に入れて、次は席を手に入れようと辺りを見回すと、名も知らぬ事務員を再び見つけた。


空いている席がまだあるのにいきなり隣に座るなんて、変人だと思われる。

ちょうどいくつか隣の彼女が見える席が空いていたので、急いで向かう。無事に座れた。


彼女は何を食べているんだろう。

ちらりと見るが、私が入り口で悩んでいる間に、ほとんど食べてしまったようで、もうメインはなく判別がつかない。

しかし、美味しいものを食べていたのだなと彼女のにこにこ顔で分かる。

美味しいものを食べると幸せになると持論があったが、美味しいものを食べた人を見ても幸せになれるのだな。いいなぁ。


決めた。うん、彼女がいい。







しかし、勝手にだけれど環さんを世話係にと決めてからが長かった。





☆☆☆


佐々木氏がよくしてくれている分、すごく言い出しにくい。


そうこうしているうちに、入梅してしまった。

この季節は長生きしていても好きになれない。仕事が増えるからだ。

まず担当地域の点検箇所が増える。それに、大学も契約しているので、県内に点在している大学施設の異常も気をつけているが、所在が山奥だったり実習先の農家だったり、雨が降ると気をつけることがどっと増えるのだ。ああ、気が抜けない。


無事に梅雨明けしたかと思えば、今度は、事務が期末試験やそれに伴う学生の成績管理等の時期に入ってしまった。


やっと8月になれば、なんと佐々木氏がスクーターで事故をして骨折したとの一報を受けた。

大学病院だったのでなんとかお見舞いに行き無事を確認できたけれど、足の骨折で来月まで入院するとのこと。

キャンパス見学の準備とかあったのに、自分がいなくなったから、事務室のみんなが夏休みとれなくなっちゃったみたいなんだなんて言われれば、一体誰が、世話係の話をできるだろうか。


佐々木氏が大学に戻ってきても、彼は入院していた分仕事が溜まっていて、より一層忙しそうだ。

このままでは1年過ぎても彼女は私の元に来てくれないかもしれない。

9月も終わる頃に、思い切って話そうとしたら、逆に佐々木氏から言われた。


「私、勤務年数的に来年から別キャンパスに異動の可能性があるんで、後任決めちゃいました。今年入った一押し新人がいるので、来週連れて来ます。烏帽子様と話が合うと思いますよ」


…今まで私は何をしていたのだ。佐々木氏はこういう人だって知ってただろう…。

12年世話係をしてくれた佐々木氏がいなくなってしまうかもしれないのは寂しいが、移動先が別キャンパスならまた会う機会もあるだろう。

とにかく、彼女が来る!!







そうそう、あの時は、環さんが来るということに浮かれて、うっかりしていたのですよね。

佐々木氏が来週連れてくるって言っていたことに。



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