拍手
その朗読会には、十二人の客がいた。
間違いない。
開演前に、私が自分で数えたからだ。
会場は駅から十分ほど歩いたところにある小さな喫茶店だった。夜だけ店の奥を貸し切って、詩の朗読や小さな演奏会をやっている。
客席といっても、丸椅子が三列。一列に四人。
十二人。
その前に、低い木の台がある。舞台と呼ぶには少し大げさだった。
私はそこで、怖い話を読むことになっていた。
月に一度の朗読会で、出演者は三人。最初に読むのは私だった。
「では、本日の最初の作品です」
司会の女性に名前を呼ばれ、舞台に上がった。
十二人がこちらを見る。
前列には毎回来てくれる老夫婦。二列目には文学サークルの女性が三人と、大学生くらいの青年。最後列には店の常連らしい男性が四人。
私は原稿を開いた。
最初の作品は、古い旅館を舞台にした短い怪談だった。
夜中、誰もいない廊下を濡れた足音が歩く。そんな、よくある話だ。
「――翌朝、廊下には足跡が一つだけ残っていた。それは部屋へ入る足跡ではなく、部屋から出ていく足跡だった」
原稿を閉じた。
拍手が起こった。
ぱちぱちぱちぱち。
小さな会場なので、音はよく響く。
頭を下げながら、私は顔を上げた。
十二人。
全員が手を叩いている。
なのに。
ひとつ多い。
そう思った。
正確には、ひとり多い、だった。
十二人が拍手しているはずなのに、十三人分の音が聞こえる。
そんな馬鹿な。
一人につき手は二本ある。拍手の回数から人数など数えられるはずがない。
それでも私は、舞台を降りながらもう一度客席を見た。
十二人だった。
二人目の朗読者は、五十代くらいの男性だった。
古い日本家屋を題材にした怪談を読み始めた。押入れの奥に、何年も前に亡くなった祖母がいる、という話だった。
私は一番端の席に座った。
話より、客席が気になった。
一、二、三、四。
一、二、三、四。
一、二、三、四。
三列。
十二人。
空席はない。
誰かが後ろに立っているわけでもない。店員はカウンターの向こうにいる。
「押入れを開けると、そこにあったのは祖母の着物だけだった。けれど翌朝、その着物は、布団の中で私の隣に寝ていた」
男の朗読が終わった。
拍手。
ぱちぱちぱちぱち。
今度は意識して耳を澄ませた。
分かった。
数ではない。
ずれているのだ。
十二人がほとんど同時に手を叩く、その拍手の中に、ほんの少し遅れてついてくる音がある。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
誰か一人だけ、半拍ほど遅い。
私は客席を見回した。
老夫婦も、文学サークルの女性たちも、大学生らしい青年も、最後列の常連客も、普通に拍手している。
おかしな叩き方をしている人はいない。
それでも。
十三人分、聞こえる。
拍手が止まった。
静かになった店内に、
ぱち。
と、一度だけ音がした。
私は顔を上げた。
舞台袖だった。
三人目の朗読者は若い女性だった。
「こういうの、初めてなんです」
彼女はそう言って笑った。
作品は電話を題材にした怪談だった。死んだ恋人から、毎晩同じ時刻に電話がかかってくる。出ても、最初は無言。何日目かに、ようやく声がする。
「もうすぐ帰るよ」
そんな話だった。
私はほとんど聞いていなかった。
舞台袖を見ていた。
黒いカーテンが一枚。その向こうには小さな物置がある。折りたたみ椅子や譜面台、マイクスタンドが置かれているだけだ。
人が隠れることはできるだろう。
だが、そんなことをする理由がない。
「玄関の外で電話が鳴った。私はドアを開けなかった」
女性が読み終えた。
拍手が起きた。
私は目を閉じた。
十二人分の拍手。
そして。
ぱち。
舞台袖。
ぱち。
また、舞台袖。
ぱち。
そこだ。
もう曖昧ではなかった。
黒いカーテンの向こうで、一人だけ拍手している。
私は立ち上がった。
隣の女性が不思議そうに見る。
「どうしました?」
「ちょっと……」
舞台袖へ向かった。
黒いカーテンをめくる。
物置。
折りたたみ椅子。
譜面台。
紙袋。
掃除機。
誰もいない。
壁に小さな鏡が掛かっていた。
自分の顔が映っている。
ひどく青白かった。
その後ろに、客席が映っていた。
私は数えた。
十三人。
息を止めた。
振り返る。
十二人。
もう一度、鏡を見る。
十三人。
最後列の、いちばん左。
知らない男が座っていた。
黒い服を着ている。
年齢は分からない。
俯いていて、顔もよく見えない。
振り返った。
その席には、店の常連の男性が座っている。
鏡を見る。
常連客の隣に、黒い男がいる。
振り返る。
いない。
鏡を見る。
いる。
男が、顔を上げた。
こちらを見た。
私はカーテンを閉めた。
「大丈夫ですか?」
司会の女性が声をかけてきた。
「はい」
自分でも分かるほど、声が裏返った。
「ちょっと、眩暈がして」
「休みます?」
「大丈夫です」
本当は帰りたかった。
だが、その日は最後に、出演者三人がもう一作品ずつ読むことになっていた。
私は最後だった。
四本目が終わった。
拍手。
十二人と、もう一人。
五本目。
拍手。
十二人と、もう一人。
私はもう鏡を見なかった。
見なければ、男はいない。
そう思うことにした。
そして、最後。
私の番になった。
「本日の最後の作品です」
私は舞台に立ち、原稿を置いた。
客席を見る。
十二人。
全員がこちらを見ている。
妙に静かだった。
私は読み始めた。
最後の作品も怪談だった。
朗読会の話だった。
書いたのは半年前で、今日のために選んだのは偶然だった。
小さな会場で、怖い話を読む。
客は十二人。
読み終わるたびに拍手が起こる。
だが、その拍手が一人分多い。
そこまで読んで、私は止まった。
原稿を見た。
手が震えた。
こんな話だっただろうか。
確かに朗読会を舞台にした話ではあった。
だが、客が十二人だったか。
拍手が一人多い話だったか。
覚えていない。
続きを読んだ。
「三つ目の話が終わったとき、その拍手は舞台袖から聞こえた」
声が止まった。
客席が静かに私を見ている。
私は原稿をめくった。
最後の一枚。
そこに書かれた文章を見て、息を呑んだ。
こんなものを書いた覚えはない。
だが、自分の字だった。
「朗読者は気づいた」
私は読んだ。
「拍手をしている十三人目は、死者ではなかった」
客席のどこかで、椅子が軋んだ。
「それは、次に死ぬ人間だった」
自分の声が遠く聞こえた。
「十三人目は、毎回違う席に座る。誰にも見えない。ただ、朗読者にだけ、その拍手が聞こえる」
原稿から目を上げた。
十二人がいる。
誰も動かない。
「そして、最後の物語が終わると――」
文章は、そこで切れていた。
ページを裏返した。
白紙だった。
何もない。
私はしばらく立っていた。
何をすればいいのか分からなかった。
「……以上です」
そう言って、頭を下げた。
拍手は起こらなかった。
誰一人、手を叩かない。
十二人が黙っている。
顔を上げる。
客たちは私を見ていた。
誰も笑っていない。
司会者も動かない。
私は思った。
終わった。
何も起きなかった。
その瞬間。
ぱち。
背後で音がした。
私は動けなかった。
ぱち。
もう一度。
舞台の後ろ。
一メートルほど。
ぱち。
近い。
私のすぐ後ろ。
客席の十二人は、手を膝に置いたままだ。
誰も拍手していない。
ぱち、ぱち、ぱち。
耳のすぐ後ろで、誰かが拍手している。
振り返れない。
黒いカーテンは、舞台の横だ。
私の後ろには壁しかない。
それでも、そこに誰かがいる。
拍手が止まった。
代わりに、息が聞こえた。
耳元で。
知らない男の声がした。
「次は」
私は目を閉じた。
「あなたの話を読んでください」
照明が消えた。
誰かが悲鳴を上げた。
すぐに明かりがついた。
私は舞台の上に立っていた。
後ろには誰もいない。
「大丈夫ですか?」
司会の女性が駆け寄ってきた。
私は答えられなかった。
客席を見る。
一、二、三、四。
一、二、三、四。
一、二、三、四。
十二人。
「今……誰か、拍手しました?」
客たちは顔を見合わせた。
老夫婦の男性が首を横に振った。
「誰もしてないよ」
「最後のところです」
「うん。してない」
私は舞台を降り、原稿を片づけた。
帰ろうと思った。
そのとき、司会の女性が言った。
「でも、変ですね」
「何がです?」
「今日のお客さん」
彼女は客席を見た。
「十一人しか予約なかったんです」
私は振り返った。
十二人いる。
「飛び入りじゃないですか」
「いいえ。入口で全員、名前を確認しました」
「じゃあ……」
誰が増えたんです。
そう言いかけて、やめた。
最後列の左端で、一人の客が立ち上がった。
黒い服の男だった。
初めて見る顔。
いや。
見たことがある。
鏡の中で。
男は私を見ていた。
ゆっくり両手を上げた。
ぱち、ぱち、ぱち。
誰も振り返らない。
聞こえているのは、私だけだった。
男が笑った。
口が動いた。
「また、次回」
照明が一度、瞬いた。
男はいなくなった。
その朗読会には、それ以来出ていない。
店にも行っていない。
怖い話を書くこともやめた。
少なくとも、人前で読むことはしていない。
だから、これは朗読用の原稿ではない。
本当だ。
誰かに声に出して読んでもらうために書いたものでもない。
ただ、一つだけお願いがある。
もしこれを読んだあと、誰かに聞かせてみようと思っても、やめてほしい。
どうしても読むなら、読み終わっても拍手をしないでほしい。
誰か一人が始めても、つられてはいけない。
十二人でも。
百人でも。
たった一人でも。
絶対に。
私はあとになって気づいたのだ。
あれは十三人目ではなかった。
客が十二人いたから、十三人目だと思っただけだった。
あれは、いつだって。
最後に拍手をした人の隣に座る。
そして、その人が次の話を読み終えるのを、ずっと待っている。
だから。
今。
もしあなたの隣で。
誰も手を叩いていないのに。
ぱち。
と聞こえても。
振り向かないでほしい。
もう一度。
ぱち。
と聞こえても。
まだ。
振り向かないで。
そして三度目に、
ぱち、ぱち、ぱち。
と聞こえたら――もう遅い。




