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拍手

作者: 朝吹龍一朗
掲載日:2026/08/12

 その朗読会には、十二人の客がいた。

 間違いない。

 開演前に、私が自分で数えたからだ。

 会場は駅から十分ほど歩いたところにある小さな喫茶店だった。夜だけ店の奥を貸し切って、詩の朗読や小さな演奏会をやっている。

 客席といっても、丸椅子が三列。一列に四人。

 十二人。

 その前に、低い木の台がある。舞台と呼ぶには少し大げさだった。

 私はそこで、怖い話を読むことになっていた。

 月に一度の朗読会で、出演者は三人。最初に読むのは私だった。

「では、本日の最初の作品です」

 司会の女性に名前を呼ばれ、舞台に上がった。

 十二人がこちらを見る。

 前列には毎回来てくれる老夫婦。二列目には文学サークルの女性が三人と、大学生くらいの青年。最後列には店の常連らしい男性が四人。

 私は原稿を開いた。

 最初の作品は、古い旅館を舞台にした短い怪談だった。

 夜中、誰もいない廊下を濡れた足音が歩く。そんな、よくある話だ。

「――翌朝、廊下には足跡が一つだけ残っていた。それは部屋へ入る足跡ではなく、部屋から出ていく足跡だった」

 原稿を閉じた。

 拍手が起こった。

 ぱちぱちぱちぱち。

 小さな会場なので、音はよく響く。

 頭を下げながら、私は顔を上げた。

 十二人。

 全員が手を叩いている。

 なのに。

 ひとつ多い。

 そう思った。

 正確には、ひとり多い、だった。

 十二人が拍手しているはずなのに、十三人分の音が聞こえる。

 そんな馬鹿な。

 一人につき手は二本ある。拍手の回数から人数など数えられるはずがない。

 それでも私は、舞台を降りながらもう一度客席を見た。

 十二人だった。

 二人目の朗読者は、五十代くらいの男性だった。

 古い日本家屋を題材にした怪談を読み始めた。押入れの奥に、何年も前に亡くなった祖母がいる、という話だった。

 私は一番端の席に座った。

 話より、客席が気になった。

 一、二、三、四。

 一、二、三、四。

 一、二、三、四。

 三列。

 十二人。

 空席はない。

 誰かが後ろに立っているわけでもない。店員はカウンターの向こうにいる。

「押入れを開けると、そこにあったのは祖母の着物だけだった。けれど翌朝、その着物は、布団の中で私の隣に寝ていた」

 男の朗読が終わった。

 拍手。

 ぱちぱちぱちぱち。

 今度は意識して耳を澄ませた。

 分かった。

 数ではない。

 ずれているのだ。

 十二人がほとんど同時に手を叩く、その拍手の中に、ほんの少し遅れてついてくる音がある。

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 誰か一人だけ、半拍ほど遅い。

 私は客席を見回した。

 老夫婦も、文学サークルの女性たちも、大学生らしい青年も、最後列の常連客も、普通に拍手している。

 おかしな叩き方をしている人はいない。

 それでも。

 十三人分、聞こえる。

 拍手が止まった。

 静かになった店内に、

 ぱち。

 と、一度だけ音がした。

 私は顔を上げた。

 舞台袖だった。

 三人目の朗読者は若い女性だった。

「こういうの、初めてなんです」

 彼女はそう言って笑った。

 作品は電話を題材にした怪談だった。死んだ恋人から、毎晩同じ時刻に電話がかかってくる。出ても、最初は無言。何日目かに、ようやく声がする。

「もうすぐ帰るよ」

 そんな話だった。

 私はほとんど聞いていなかった。

 舞台袖を見ていた。

 黒いカーテンが一枚。その向こうには小さな物置がある。折りたたみ椅子や譜面台、マイクスタンドが置かれているだけだ。

 人が隠れることはできるだろう。

 だが、そんなことをする理由がない。

「玄関の外で電話が鳴った。私はドアを開けなかった」

 女性が読み終えた。

 拍手が起きた。

 私は目を閉じた。

 十二人分の拍手。

 そして。

 ぱち。

 舞台袖。

 ぱち。

 また、舞台袖。

 ぱち。

 そこだ。

 もう曖昧ではなかった。

 黒いカーテンの向こうで、一人だけ拍手している。

 私は立ち上がった。

 隣の女性が不思議そうに見る。

「どうしました?」

「ちょっと……」

 舞台袖へ向かった。

 黒いカーテンをめくる。

 物置。

 折りたたみ椅子。

 譜面台。

 紙袋。

 掃除機。

 誰もいない。

 壁に小さな鏡が掛かっていた。

 自分の顔が映っている。

 ひどく青白かった。

 その後ろに、客席が映っていた。

 私は数えた。

 十三人。

 息を止めた。

 振り返る。

 十二人。

 もう一度、鏡を見る。

 十三人。

 最後列の、いちばん左。

 知らない男が座っていた。

 黒い服を着ている。

 年齢は分からない。

 俯いていて、顔もよく見えない。

 振り返った。

 その席には、店の常連の男性が座っている。

 鏡を見る。

 常連客の隣に、黒い男がいる。

 振り返る。

 いない。

 鏡を見る。

 いる。

 男が、顔を上げた。

 こちらを見た。

 私はカーテンを閉めた。

「大丈夫ですか?」

 司会の女性が声をかけてきた。

「はい」

 自分でも分かるほど、声が裏返った。

「ちょっと、眩暈がして」

「休みます?」

「大丈夫です」

 本当は帰りたかった。

 だが、その日は最後に、出演者三人がもう一作品ずつ読むことになっていた。

 私は最後だった。

 四本目が終わった。

 拍手。

 十二人と、もう一人。

 五本目。

 拍手。

 十二人と、もう一人。

 私はもう鏡を見なかった。

 見なければ、男はいない。

 そう思うことにした。

 そして、最後。

 私の番になった。

「本日の最後の作品です」

 私は舞台に立ち、原稿を置いた。

 客席を見る。

 十二人。

 全員がこちらを見ている。

 妙に静かだった。

 私は読み始めた。

 最後の作品も怪談だった。

 朗読会の話だった。

 書いたのは半年前で、今日のために選んだのは偶然だった。

 小さな会場で、怖い話を読む。

 客は十二人。

 読み終わるたびに拍手が起こる。

 だが、その拍手が一人分多い。

 そこまで読んで、私は止まった。

 原稿を見た。

 手が震えた。

 こんな話だっただろうか。

 確かに朗読会を舞台にした話ではあった。

 だが、客が十二人だったか。

 拍手が一人多い話だったか。

 覚えていない。

 続きを読んだ。

「三つ目の話が終わったとき、その拍手は舞台袖から聞こえた」

 声が止まった。

 客席が静かに私を見ている。

 私は原稿をめくった。

 最後の一枚。

 そこに書かれた文章を見て、息を呑んだ。

 こんなものを書いた覚えはない。

 だが、自分の字だった。

「朗読者は気づいた」

 私は読んだ。

「拍手をしている十三人目は、死者ではなかった」

 客席のどこかで、椅子が軋んだ。

「それは、次に死ぬ人間だった」

 自分の声が遠く聞こえた。

「十三人目は、毎回違う席に座る。誰にも見えない。ただ、朗読者にだけ、その拍手が聞こえる」

 原稿から目を上げた。

 十二人がいる。

 誰も動かない。

「そして、最後の物語が終わると――」

 文章は、そこで切れていた。

 ページを裏返した。

 白紙だった。

 何もない。

 私はしばらく立っていた。

 何をすればいいのか分からなかった。

「……以上です」

 そう言って、頭を下げた。

 拍手は起こらなかった。

 誰一人、手を叩かない。

 十二人が黙っている。

 顔を上げる。

 客たちは私を見ていた。

 誰も笑っていない。

 司会者も動かない。

 私は思った。

 終わった。

 何も起きなかった。

 その瞬間。

 ぱち。

 背後で音がした。

 私は動けなかった。

 ぱち。

 もう一度。

 舞台の後ろ。

 一メートルほど。

 ぱち。

 近い。

 私のすぐ後ろ。

 客席の十二人は、手を膝に置いたままだ。

 誰も拍手していない。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 耳のすぐ後ろで、誰かが拍手している。

 振り返れない。

 黒いカーテンは、舞台の横だ。

 私の後ろには壁しかない。

 それでも、そこに誰かがいる。

 拍手が止まった。

 代わりに、息が聞こえた。

 耳元で。

 知らない男の声がした。

「次は」

 私は目を閉じた。

「あなたの話を読んでください」

 照明が消えた。

 誰かが悲鳴を上げた。

 すぐに明かりがついた。

 私は舞台の上に立っていた。

 後ろには誰もいない。

「大丈夫ですか?」

 司会の女性が駆け寄ってきた。

 私は答えられなかった。

 客席を見る。

 一、二、三、四。

 一、二、三、四。

 一、二、三、四。

 十二人。

「今……誰か、拍手しました?」

 客たちは顔を見合わせた。

 老夫婦の男性が首を横に振った。

「誰もしてないよ」

「最後のところです」

「うん。してない」

 私は舞台を降り、原稿を片づけた。

 帰ろうと思った。

 そのとき、司会の女性が言った。

「でも、変ですね」

「何がです?」

「今日のお客さん」

 彼女は客席を見た。

「十一人しか予約なかったんです」

 私は振り返った。

 十二人いる。

「飛び入りじゃないですか」

「いいえ。入口で全員、名前を確認しました」

「じゃあ……」

 誰が増えたんです。

 そう言いかけて、やめた。

 最後列の左端で、一人の客が立ち上がった。

 黒い服の男だった。

 初めて見る顔。

 いや。

 見たことがある。

 鏡の中で。

 男は私を見ていた。

 ゆっくり両手を上げた。

 ぱち、ぱち、ぱち。

 誰も振り返らない。

 聞こえているのは、私だけだった。

 男が笑った。

 口が動いた。

「また、次回」

 照明が一度、瞬いた。

 男はいなくなった。

 その朗読会には、それ以来出ていない。

 店にも行っていない。

 怖い話を書くこともやめた。

 少なくとも、人前で読むことはしていない。

 だから、これは朗読用の原稿ではない。

 本当だ。

 誰かに声に出して読んでもらうために書いたものでもない。

 ただ、一つだけお願いがある。

 もしこれを読んだあと、誰かに聞かせてみようと思っても、やめてほしい。

 どうしても読むなら、読み終わっても拍手をしないでほしい。

 誰か一人が始めても、つられてはいけない。

 十二人でも。

 百人でも。

 たった一人でも。

 絶対に。

 私はあとになって気づいたのだ。

 あれは十三人目ではなかった。

 客が十二人いたから、十三人目だと思っただけだった。

 あれは、いつだって。

 最後に拍手をした人の隣に座る。

 そして、その人が次の話を読み終えるのを、ずっと待っている。

 だから。

 今。

 もしあなたの隣で。

 誰も手を叩いていないのに。

 ぱち。

 と聞こえても。

 振り向かないでほしい。

 もう一度。

 ぱち。

 と聞こえても。

 まだ。

 振り向かないで。

 そして三度目に、

 ぱち、ぱち、ぱち。

 と聞こえたら――もう遅い。


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