第七章 苦杯
仕事前の喫煙所では、他部署の人と顔を合わせることが多々ある。
唯奈と知り合ったのも、その喫煙所だった。
最初は挨拶程度。
次第に、天気の話をするようになり、
そのうち他愛のない話も交わすようになった。
ストラップ付きの入館証は、雇用形態で色分けされている。
派遣は青色だ。
「派遣さんなんですね。私もです」
そう言って唯奈は微笑んだ。
青いストラップが、共通の話題を作ってくれた。
「どちらの派遣会社なんですか?」
仲間を見つけたような口ぶりで尋ねてくる。
「○○サービスだよ」
「同じです。もう長いんですか、ここ」
「もうすぐ3年かな」
「ベテランさんですね」
自然と距離が縮まり、喫煙のタイミングが重なると、ちょこちょこ会話を交わす仲になっていった。
ある朝。
目を腫らした唯奈が喫煙所にやってきた。
「おはよー……あれ? 目、腫れてる?」
「分かっちゃいます?」
「うん。どうしたの?」
「昨日、彼と喧嘩して……」
「そっか、、ちゃんと仲直りしなきゃ、だね。」
そう言いながら、心のどこかで、“若いっていいな”と思っていた。
その日を境に、唯奈をしばらく見かけなくなった。
久しぶりに姿を現した唯奈は、少し痩せたように見えた。
「久しぶりだね。痩せた?」
「お久しぶりです。……少し、ですかね。ちょっとメンタルやられてて、会社休んでました」
恋愛が人生の中心になるのは、若い子ならではだ。
だが、そのまっすぐさが眩しくもある。
「もう最悪ですよ」
ため息混じりに言ったあとで、ふっと顔を上げて笑った。
「でも、気持ち切り替えました」
「偉いね」
「今日の夜、予定ありますか?」
「……その事情聴取、ちょっと怖いんだけど」
つられてゆきも、少し笑ってしまう。
「給料日前だから、割り勘なら」
「わーい!」
無邪気に喜ぶ唯奈の笑顔が、朝の曇った空気を晴らした。
「では定時後、正面玄関で待ってます!」
「お先です」
吸い殻を水の入ったバケツに勢いよく投げ入れ、足早に喫煙所をあとにする唯奈。
その背中を見つめながら、ゆきは思った。
――なんて素直で可愛い子なんだろう。
「ここの焼き鳥屋、安くて美味しいんですよ。ジョッキもキンキンに冷えてて最高なんです」
焼き鳥屋のカウンターは狭く、木の香りが漂っていた。ジョッキの冷たさが手に心地よく、店内のざわめきが心地よい雑音になっていた。
「ゆきさんはお酒が強そうですよね」
「そんなことないわよ。」
「いや、ある笑」「私、お酒飲みたがりな割に弱くて」
人と居るのが好きなんだろう。
恋人の事が有ったからなおさら人が集まる場所に居たいのだろう。
ゆきも唯奈もお酒が進み
二〜三杯飲み終わる頃には唯奈の顔は赤く呂律も怪しくなりつつあった。
「酔ったかもです。」
「ふふふ。かもじゃなくて酔ってるわよ。」
「何を飲むかじゃ無くて誰と飲むかですよね。今日は最高に気分がいいです」
言葉とは裏腹に沈黙が流れ出す。
グラスの水滴を指でなぞり
濡れた指先をもてあましていた。
「ゆきさん。アタシ本当に時間を無駄に過ごしたなって今は思ってて」
「どうしてそう思うの?」
「最近は忙しいとか言って会う頻度が減って。会うと私がメンヘラ起こすもんだから喧嘩になっちゃう。」
「はっきりとは言われて居ないですけど、流石に連絡が無くなると察しますよね」
唯奈は声を出さずに泣き出した。
ゆきは知っている。声を出さずに泣く苦しさも、呼吸も、リズムも。
おしぼりで鼻水やら涙やらを拭きながら
「聞いてください」
ゆきは優しい表情で頷いた。
「彼、既婚者なんです。」
「都合の良い時だけ会うとかじゃ無くて週末にデートしたり旅行行ったり普通のカップルと大差無い恋愛だと感じてたんです」
「寝姿山に行った時、軍服とウエディングドレスを着て写真を撮って。ウエディングドレスを着て彼の隣に立てるなんて夢みたいで」
宝物だった写真はゴミになった。
「喧嘩が続いて連絡が無くなって、会社で会うのが気まずくて。それで休んでました」
ゆきは思わず目を見開いた。
「会社の人?」
「はい。」
「ちょっと前に係長に他部署へ資料を届けに行く様に仰せつかり、途中、廊下で彼が若い子と楽しそうに話していて。ヤキモチ焼いて聞いたんですよ。そしたら仕事の話をしてただけだって。普通、廊下で仕事の話しします?」
「もう最悪」
「若い子見て思いましたもん。あ、アタシの後釜だって。その笑顔は長く続かないよって」
「ベラベラ話しすぎましたね。すみません」
「そんな事ないよ。吐き出したかったんでしょう。それで誘ってくれたんでしょ。少しは楽になった?」
ゆきの言葉に唯奈は再び泣き出した。
そっと唯奈の前へポケットティッシュを差し出した。
「ありがとうございます。」
酔って泣いて聞き取りづらい唯奈の言葉だが一生懸命に礼を言うあたりが唯奈の素直さのひとつだなと、これ以上不幸にならなければいいなとゆきは心から願った。
「あーーーもう次見つけます!」
「次こそ幸せになります」
ゆきは目を細めて頷いた。
「万が一、より戻そうなんて言われても、私はもう村瀬に振り回されません!」
え......
今、なんて.....
ゆきはゴクリと唾を飲み込んだ。
唯奈に聞こえそうなほど
わなわなと震える心の音がした。
「会社の人って......」
「はい、人事部の村瀬です」
その言葉がゆきの耳に刺さる。
時が一瞬止まったように感じた。
一気に飲み干したグラスの中の氷がカランと鳴った。




