第一章:「知ってしまった、罪と武器」
午前八時四十五分。
ガラス張りのビル一階、屋内型喫煙室には、昨日から始まった人員削減の話題が静かに漂っていた。
「部長からの肩叩きされたらって考えただけで焦りますよ」
「赤札もんよ、マジで」
「俺なんかマンション買ったばっかだぜ」
背後で、派遣社員のゆきは火の消えかけたタバコを握りしめながらその会話を聞いていた。
「俺ら組織の歯車だしな。逆らえないっつうか仕方ないしな。飯食えてるだけありがたく……なんて思えねーつうの」
ゆきは飄々とした表情のまま
正社員じゃなくて良かった。
組織の歯車さん方、サラリー人生詰みそうですかね。
有能なら人員削減の対象にならないでしょうに。
今までなにやってたんですか?
お疲れさんですこと。
心の中で毒づき
タバコの煙と一緒に心の声を吐き消していた。
派遣先は都内の中堅メーカー、アオバ機工。
ゆきは経理部門に派遣されていた。今は三ヶ月毎の契約更新を前にした「評価期間」だった。
「山野さん、先週の請求書チェック助かりました。あれ、経理部長も気づいてなかったの」
事務担当の長野が声をかけてきた。二十代半ば、朗らかな派遣仲間だ。
「とんでもないです。フォーマットが違ってたことに気づいて私もホッとしました。あとあと分かって問題になるより未然に防げて、お互いなによりです」
ゆきは表情をほとんど動かさず、淡々と返した。
控えめなトーン。
「やっぱり山野さんって、本当すごいなあ。正社員になればいいのに」
「え……向いてないと思う」
笑わずにそう言うゆきに、長野は一瞬きょとんとして笑った。
「えー、そんなことないですよー」
口には出さないが、長野の明るさには救われている部分もある。もっとも、事務作業の遅さには少し歯がゆさも感じているが。
昼休み。自席でコンビニおにぎりを食べながら、ゆきはスマホのスケジュールに目を落とした。来週、派遣会社の営業・篠田との面談が入っていた。
また来た、3ヶ月ごとの茶番劇。
経理部なので派遣会社からの請求書にも当然、目を通している。
ゆきは自分がいくらで契約されているのか、いくらピンハネされているかよく知っている。
私で美味しい汁吸っているくせに、またあの茶番に付き合うのか。
小さく毒つく。
派遣会社の営業、篠田の腕時計がロレックスになっていた。羽振りがいい仕事なのか。歩合がいいのか、
私も派遣会社の営業にでもなった方が余裕のある生活ができるかしら。
いや、無理。
炎天下でも、極寒の路上でも外回りなんてできるはずがない。
エアコンの効いた夏、暖房の効いた冬。
オフィスワークが、私には一番合っている。
ゆきの配属部署の部長に「真面目にコツコツとこなす事を得意としております。引き続きよろしくお願いします」と身ぶり手ぶりを交えながら、ひたすら持ち上げる。信頼はしてないがそれなりにプレゼン能力は高そうだ。
疑問に思うことも不平不満もゆきは何も言わない。口に出さない。
契約を切られたくない。更新は、生きるための綱。
その日の夕方。
ゆきは経理部のデータベースで、先月分の帳簿を確認していた。
新しい決算処理のために、過去データを引っ張り出していたのだ。
「……?」
「存在しない部署名だ……」
担当者名は現在休職中だ。
だが、帳簿は「今月」のものだ。
唇を噛みながら、画面を凝視した。
不自然な申請。通っているはずのない承認。
見なかったことにすればいい。
記憶からも、データからも、すべて消してしまえばいい。
派遣社員にとって“知らない”は、最大の安全策。
知ったとしても私の給料に関係ないのならスルーしてしまうのがいい。
だが、しばらくして思い直したゆきは自分の携帯のカメラでパソコンの画面を撮った。
社内PCでの操作履歴は、システム部がすぐに追跡できる。
だからこそ、証拠を残すなら、自分の携帯に保存しておこう。
誰かに携帯を覗かれない限り、
私がこの事実を知っていると言うことは誰も知らないはず。
何かのために、万が一のために撮っておこう。
その夜、ゆきは帰る前にタバコを一本吸った。
誰かの煙がまだ漂っていた。
タバコの煙の中に、かすかに焦げたような匂いが混じっていた。何かが、静かに燃え始めているような気がした。




