一 蒼穹
鹿が走っていた。
心と身の動きを合わせ弓を引き絞る。射程に入った。射る。急所に当たった。大鹿だったらしく、無言で巨体は倒れた。
「皇黎、騎射など鍛えても実戦には」
「うるさいな」
苦笑し、飛天の馬腹を締めて鹿の所へ駆けた。
「応龍、さすがにここまでの大きさは珍しいんじゃないか。初めてだ、この大きさは」
「そうだな。俺も昔、伊州のはずれで一度見たきりだ」
こいつは一体何年生きているのだろうと皇黎は思った。鹿の方を向き、いつも持っている小刀を取り出す。小さいがよく研いでいるので切れ味はいい。
黎は小刀で鹿を捌いた。
血が手にかかる。温かいが、生臭い。
内臓を取り出し、肉を切り分ける。
手が赤く染まり、爪の間に血が入る。
今夜は、久しぶりに腹いっぱい食えるはずだ。
「叔父貴は喜ぶかな」
皇黎には皇凱という叔父がいた。もう三十の半ばを超えるあたりだろうか、未だに立合では勝ったことはない。応龍の話では、五年前に虎を打ち倒したことさえあるという。
「知らんな。早く帰るぞ、俺は腹が減った」
「龍でも腹が減るんだな」
「当たり前だ」
皮肉を言ったつもりだが、素直に返された。当たり前か。確かに、龍だろうが蛇だろうが生きていれば腹は空く。死ねば、それはただ土に還る屍でしかない。
鹿の処理を終え、飛天の鞍の袋に肉を吊るした。馬に名をつけるのは父もやっていたことだと皇凱も言っていた。
生まれてすぐ、父が死に国は焼き尽くされた。帝舜の悪あがきで中央は栄えているが、辺境は寂れて、目も当てられない状態らしい。民の怨みは日々たまっており、反乱が起こる寸前のようだ。
皇凱や応龍はほぼ皇族の故郷や母国について喋ったことはなかった。何を思い、何のために皇黎を鍛えるのかも聞いたことはない。いつか皇黎を外に出し、帝舜に雪辱を果たさせるつもりなのかもしれないし、一生この蒼天領で暮らさせるつもりかもしれない。
どちらでもいいと皇黎は思っていた。どうせ外に出されるなら帝舜に一度目にもの見せてやりたかったし、蒼天領で暮らすのも悪くはなかった。応龍に言わせれば、他の地域は空が蒼くなく、空気もどこか淀んでいるらしい。
「おい、皇黎。考え事なんかしてると崖から落ちるぞ」
慌てて馬を停めた。皇黎によると、心が通じ合った馬は主人を慮って危険を避けるらしい。まだ、飛天はその段階とは言い難かった。
「あっぶねえ。もっと早く言えよ、応龍」
「早く止めたなら止めたで、お前はどうせ気づいているとか言っただろう」
その通りだった。
皇黎がいる小屋が見えてきた。今日は珍しく、朝から畑を耕さずに剣を振っていたが、まだ振っているらしかった。
「叔父貴、鹿を獲ってきました」
呼びかけるが、未だに気づいていないのか。これ六刻(三時間)は振り続けているはずだった。
「応龍、叔父貴のあの剣はなんだ」
声を潜めて聞いた。
「そうか、決めたのだな」
応龍はほぼ無視して、独り言を呟きながら飛んでいた。
「くそっ、どういうことだ」
「おお、応龍、皇黎。帰ってきたのだな」
「はい。珍しいではないですか。剣を振り続けるなど」
「致し方ない。皇黎、昼食が終わったら話がある。庭に来い」
「叔父貴の飯は」
「必要ない」
どうにも不自然だった。いかにも言葉が少ない叔父とは言え、理由も言わず食事が終わった後に来いというのは初めてだった。
「応龍、これはどういう」
「家に入れ」
やはり珍しい。そう思ったが、とりあえず飛天を厩に連れて行き、鹿肉の袋を取って家の中に入った。
もう台所には皇黎が作って置いていたらしい肉と野菜があった。春でも高山地帯の蒼天領は、雪中で食い物くらいなら冷凍保存できるくらいの気温だった。釜で沸かされたお湯を乾燥肉にかけ、温めた。皿に並べる。
猪肉だった。特に味はしない。それほど昼食後に呼ばれたことが気になっているということかもしれない。
口に食い物を詰め込み、さっさと庭に出た。皇黎は応龍と剣を研ぎながら喋っていた。
「お、来たか、皇黎」
「叔父貴、話というのは」
皇黎は応龍を無視して続けた。
「皇黎、お前の母国は十五年前、帝舜という男に滅ぼされたことを知っているな」
「もちろんです」
「では、帝舜についてどう思う」
「会ったら、一発殴ってやりたいくらい憎んでいますよ」
「そうか」
皇黎は研いでいた剣を皇凱に差し出した。
「これで、斬れるか」
「この剣は何かあるのですか」
「十五年前、兄上が佩き、鳳凰を封じた剣だ」
皇凱が剣を差し出した。
鞘は地味だが、柄に龍の紋様がある。
「これは」
父——会ったこともない父が、使っていた剣。
「それは」
「多くは語らぬ。旅立つなら、道中で応龍に教えてもらえ」
皇凱の声が、わずかに震えていた。
「そうですか」
それは旅立たないなら、剣は与えないということでもあった。
まだ陽は出ている。自分は剣より弓が得意で、狩りでも弓しか使ったことはなかった。三日に一回は剣を執って皇凱と立ち合うが、勝つどころか、身体に当てたことさえなかった。そんな自分でその剣が使えるのか。帝舜と相対することなどできるのか。思念は方々に飛んだ。
家に入って自分の剣を取り出す。振りかぶって、前に打った。お世辞にも下手ではないが上手いとも言えない微妙な腕だった。
外に出る。空を眺めた。青い空は、雲一つない。剣を振る。何百回も、何千回も無心で振っていた。気づけば、日は暮れかかっていた。
皇黎はまだ、剣を研ぎ続けていた。
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