第7話
私がささやかな幸福を噛み締めていた頃、王国は静かに、しかし確実に、破滅へと向かっていた。
始まりは、王都を潤す大河『セレネ川』の異変だった。
清らかだったはずの水が、ある日を境に、まるで墨を流したかのように黒く濁り始めたのだ。
川から引き込んだ水を飲んだ人々は次々と原因不明の病に倒れ、その水が流れる農地は、作物が根から腐るように枯れていった。
「呪いだ……!大河の女神がお怒りになっているに違いない!」
民衆の間に、瞬く間に不安と恐怖が広がる。
事態を重く見た王宮は、国中から優秀な魔術師を召集し、原因の調査と浄化を命じた。
しかし、誰一人として、この異変の原因を突き止めることはできなかった。
どのような高位の浄化魔法を以てしても、黒い濁りは薄まることすらなかったのだ。
そんな中、第二王子であるエリアス殿下が、満を持して宣言した。
「皆、案ずることはない!私の婚約者であるイザベラこそ、この国を救うために現れた『聖女』なのだ!彼女の聖なる力をもってすれば、このような呪い、すぐにでも解き放ってみせよう!」
王宮前の広場に設けられた祭壇に、純白のドレスを纏ったイザベラ嬢が立つ。
エリアス殿下にエスコートされ、民衆の歓声を一身に浴びる彼女の顔は、恍惚とした喜びに満ちていた。
(聖女……?彼女が?)
街の噂でその光景を知った私は、首を傾げずにはいられなかった。
私が知る限り、彼女はごく平凡な、少しばかり魔力の扱いに長けただけの男爵令嬢のはずだ。
イザベラ嬢は、祭壇の中央で天に両手を掲げ、祈りを捧げ始めた。
彼女の体から、眩いばかりの光が放たれる。
民衆が「おおっ!」とどよめき、エリアス殿下が勝ち誇ったように胸を張る。
しかし、次の瞬間。
人々は恐怖に息を呑んだ。
イザベラ嬢が放った光がセレネ川の水に触れた途端、川の水は浄化されるどころか、まるで油を注がれた炎のように、さらに禍々しい黒色の瘴気を噴き上げたのだ!
瘴気は黒い霧となって空に立ち上り、やがて、冷たい『黒い雨』となって王都に降り注ぎ始めた。
雨に触れた者たちの腕には、醜い痣が浮かび上がり、苦痛の呻き声が至る所から響き渡る。
「きゃあああっ!」
「助けてくれ!」
広場は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「い、いや……!そんな、はずは……!」
祭壇の上で、イザベラ嬢が青ざめた顔で後ずさる。
彼女の瞳には、もはや聖女の輝きなど欠片もなかった。
あるのは、自らの力が引き起こした惨状への、純粋な恐怖だけ。
「どうしたんだイザベラ!君の聖なる力は!」
「わ、私にも分からないわ!こんなはずじゃ……!」
エリアス殿下に詰め寄られ、彼女はついに金切り声を上げた。
「私のせいじゃないわ!きっと、悪魔に魅入られたあの女の呪いよ!そうよ、セレスティアよ!婚約破棄を逆恨みしたあの『魔女』が、この国を呪っているに違いないわ!」
その見苦しい責任転嫁の言葉を、しかし、パニックに陥った民衆は信じた。
憎悪と恐怖の矛先は、もはやそこにいない私へと、一斉に向けられたのだった。




