重力のない世界
目を覚ますと、天井に吸い寄せられるように体が浮かんでいた。
布団はゆるやかに宙を舞い、棚から落ちた本やペンはゆっくり回転しながら漂っている。
――重力がなくなったのだ。
それは突然の出来事だった。ニュースも政府の発表も、誰も理由を説明できなかった。ただ世界中で、同じ異変が同時に起きていた。
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1
最初は歓喜だった。
大人も子供も、ビルの間を自由に飛び交い、海を空に散らし、地上のあらゆる制約から解放された。
「神が人類を赦したのだ」と語る人もいた。
だが日が経つにつれて、人々は気づき始める。
水道から水は出なくなり、食料は大地から離れて散逸し、眠ることさえ難しくなった。
最も深刻だったのは、人と人との距離が簡単に壊れることだ。
わずかな衝突で、相手は遠くへと漂い、二度と戻ってこないかもしれない。
「重力とは、絆の象徴だったのだ」と、誰かがつぶやいた。
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2
僕は街の中央広場で、彼女と再会した。
高校時代の同級生、結衣。
彼女もまた、地面から切り離された人々の群れの中で、必死に何かを掴もうとしていた。
「久しぶりね」
彼女は笑い、髪の束を空気に揺らせた。
「こんな世界で会うなんてな」
僕も笑ったが、その笑みは不安で震えていた。
僕たちはロープを腰に結び合い、互いを固定しながら漂った。
この奇妙な世界では、愛する人を「結ぶ」ことが文字通り命綱となる。
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3
ある夜、僕は彼女に尋ねた。
「結衣、もし地球に重力が戻らなかったら、どうする?」
彼女はしばらく考えてから答えた。
「それでも、きっと私たちは落ち合うと思う。だって心に重さがあるから」
「心に重さ?」
「うん。たとえば悲しみとか、後悔とか、愛とか。そういうものは体が浮いても消えないでしょ」
僕は黙り込み、彼女の手を強く握った。
確かに、その温度だけは宇宙の虚無のような空気の中でも確かに存在していた。
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4
しかし、やがて人類は二つに分かれ始めた。
「重力を取り戻そう」と科学を追い求める者と、
「重力に縛られない新しい存在へ進化すべきだ」と宣言する者。
結衣は後者だった。
「ねえ、私たちは縛られることに慣れすぎていたんだと思う。
本当は、もっと自由に生きられるはずなの」
僕は首を振った。
「自由だけじゃ、人は散ってしまう。
絆がなければ、愛も失われる」
彼女は微笑んだ。
「じゃあ、私があなたの重力になる」
その瞬間、僕の胸に奇妙な感覚が生まれた。
確かに地球から重力は消えてしまった。けれど、彼女という存在が、僕をこの宇宙のどこかへつなぎ止めてくれる。
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5
数年後、地球はゆっくりと崩壊を始めた。
海は空へ拡散し、森は星屑のように漂い、人間は群れを作ることさえ困難になった。
それでも僕と結衣は、互いを結ぶ一本のロープを手放さずにいた。
僕らは漂いながら語り続けた。愛について、存在について、そして未来について。
「もしも私たちが最後の二人になっても、あなたと一緒なら怖くない」
結衣はそう言って微笑んだ。
その笑みは、どんな重力よりも確かな引力を持っていた。
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終わり