第二章・2
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「……それで、うちに来たわけですか」
霧藤 愁成は、常磐にコーヒーを差し出しながら言った。
「ええ、そういうわけです」
ふてくされたように言って、常磐はコーヒーを一気に飲み干した。
霞野心療内科。鈴の主治医である霧藤が勤めている病院だ。
霧藤はアイロンのしっかり掛けられたワイシャツに、白衣が良く似合う、さぞかし女にもてるだろう爽やかな好印象の男前で、同じ男の常磐としては、まったくもって羨ましいかぎりである。
「東田さんの言い方だと、僕以外の医者に、ということだと思いますけど。一応、僕は鈴側の人間ということになりますからね」
「そんなこと言ってなかったです」
珍しく不機嫌な常磐に、くすくすと霧藤はおかしそうに笑いながら、空になったカップにコーヒーのお代わりをついだ。
「だいたい東田さんはいつも、俺の話をちゃんと聞こうとしないんですから。それでいて、人のことを信用しないなんて、ひどいですよ」
「そうですね。まあ、刑事になって日の浅い常磐さんと違って、刑事という職業にプライドをもっているからこそ、常磐さんが犯罪者の夢に同調し、それをきっかけに犯人を捕まえたなんていう話を、信じるわけにはいかないというところも、あるのかもしれませんが」
「あの人に刑事のプライドがあるとは、思えませんよ。ただ犯人に対するムカつきだけで、行動してるような人ですから」
霧藤は常磐の正面に座ると、自分もコーヒーを口に運ぶ。
「それで、僕は一応診察をした方がいいんですかね?」
「あ、いえ、診察というよりかは、昨日見た夢について、霧藤さんの意見をお聞きしたいんですが」
「……また、例の夢ですか」
「ええ、でも、今回のは、まだ犯罪がからんでいるかどうか」
「いいですよ。僕で良ければ伺いましょう」
少し身を乗り出すようにする霧藤。やはり興味があるようだ。
常磐は灯に話した夢の話を、霧藤にも話した。
「なるほど」
話が終わると、顎に手を当て考える霧藤。そんな仕草も、この男がやると様になるものだと、感心する。
「確かに、直接犯罪に結びつくようなものではないようですが」
「そうなんですよね」
「それにしても、ずいぶんとエゴの強い夢みたいですね」
「エゴ?」
霧藤の話には、ときどき、常盤にはすぐに理解できない言葉が出てくる。
「ラテン語で自我、自己意識のことで、哲学や精神分析学における原理なんですが、一般的にはエゴイズム、エゴイストなどの略として知られているかと」
「ああ、エゴイストっていうのは、なんとなく分かります。自分勝手って感じですよね」
「ええ。簡単に言うと利己的、自己中心的、自分本位な考えのことです」
いや、難しくなりましたけど……。
「どの辺が、その……エゴっぽいんです?」
「そうですね……。まず最初の“心が満たされるような正義感”ですかね。何を“正義”とするかにもよるので、一概には言えないですが、“正義感”というものは時に、独りよがりだったり、自己満足なものになりがちですから」
「何を正義とするか?」
「そう、これは当たり前のようで、とても難しい。例えば嘘をつくのは悪いことなのに、嘘も方便という言葉があるように。嘘をつくことが、時に正義だという考えがある」
「でも、嘘はいけないと思います」
常磐が言うと、霧藤は笑った。
「僕が言いたいのは、そういう考え方がある、ということです。常磐さんの言うように、それでも嘘はいけないという考えもまた、他人に押し付ければエゴになる」
頭が混乱しそうだ。
「なので、“何も間違ってはいない”という、絶対的な感情にも、強い自我を感じます」
「そうですか……」
いつも何かと迷ってばかりの常磐には、その何の迷いもない感情を、少し心地良いと感じたりしたのだが。
「それと“すべては彼女のため”です」
「それは」
「人間はやはり、どこかで自分の利益というものを考えるのが、まあ普通です。完全に他人のためだけにとる行動というのは、考えづらい。“誰かのため”といって取る行動は、どこかで必ず、“自分のため”になっているはずです。それは目には見えない、ただ単に満足感が得られるとか、そういったことかもしれませんが」
常磐はそこで、少し首を捻った。
「でも俺、別に満足感も何もないし、自分のためには全然なってないと思うんですけど、いつも東田さんのために、昼飯を買いに行ってますよ」
「それは“東田さんのために”ではなくて“東田さんのせいで”買いに行ってるんじゃないですか?」
「おおっ!」
そっちの方がしっくりくる。
「あとは“大丈夫。僕は君のことを分かっているよ”」
これは、言われなくても分かる気がする。
「他人の気持ちを理解しようとすることは、とても大切なことですが、自分は他人のことを理解できているなんて思うのは、エゴではないでしょうか」
「……」
考え込んでしまった常磐。
今回、自分が同調した人間の持つエゴに、少し気分が悪くなる。それに気がついたように、霧藤が言った。
「でも、人にエゴは付き物ですから。エゴを悪いものだと思うことはないです。人の数だけ思考があり、それを主張したり、他人のそれに同調したり、反発したりして人間関係は成り立っている」
そして、霧藤はにっこりと微笑んだ。
「僕自身、エゴの固まりのような人間ですからね」