第十一章・2
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カラララン
店のドアが開く音と、「おかえり」という大酉の声がした。
そして、二階へと上がっていく乱暴な足音。
「灯ちゃんですか?」
上を見上げる常磐。
「みたいですね」
鈴のところに顔を出さずに、上がっていってしまったということは、仲直りしていないのだろうか。
「すみませんでした。灯ちゃんとこじれることになってしまって……」
常磐は謝ったが、鈴は閉じた本をまた開いて言った。
「これは俺と灯の問題なんで。常磐さんは関係ない。ご心配いりません」
「でも、俺があんなこと頼まなければ」
「行くと決めたのは俺です」
「俺は断れないような頼みをしたんです」
「それで灯と、こうなるってことは、だいたい分かっていましたから。それでも俺はそれを選んだ」
「だけどっ」
なおも非は自分にあるのだと主張したがる常磐を、鈴はいつもの、あの強い目で見る。
とたんに何も言えなくなる。
「大事なのは、何を選ぶかよりも、選んだ後にどうするかですよ。常磐さん」
「はあ」
「いい人生を送るためにいい会社を選ぶのも大事ですが、選んだ会社でいい人生のため、何をするのかを、もっと考えろってことです。それができない奴は何を選んでも後悔するもんですよ」
難しい……。
「俺は、朝日奈さんの力を借りることを選びました。そのおかげで、事件は解決しました。それでもやっぱり、俺は朝日奈さんの力を利用したことを後悔してます」
選んだ選択は間違っていなかったと思う。それでもやはり、負い目を感じる。
鈴は少し考えるように机に頬杖をついていたが、
「俺の事件はどうなりました」
突然、鈴は話題を変えた。
十五年前に鈴とその家族が犠牲になった、一家惨殺事件。
「え」
「調べると言っていたじゃないですか」
「はい! あの、今度、当時の担当刑事だった人に話を聞けることになっていて」
「そうですか」
やはり、気になるのだろうか。当たり前だが。
「ちゃんと調べてくれているんですね。有難うございます」
「い、いえ。そんな」
「常磐さん、こういうのはどうでしょう」
「?」
「常磐さんが必要なときに、俺は常磐さんに力を貸します。その代わり、常磐さんは俺の事件の犯人を見つけてください」
常磐は目を丸くした。思いもかけない鈴の提案だった。
「事件について分かったことがあれば、真っ先に俺に教えてほしいんです。できますか」
「それは……もちろんです」
「じゃあ、交渉成立ですね」
「……はあ」
何かが引っかかる。
すると
「まったく、常磐さんは煮え切らない人ですね」
閉じられた襖の向こうから、もう耳慣れた声が聞えてきた。
「盗み聞きとはいい趣味だな、愁成」
不快感をあらわに鈴が言うと、霧藤が襖を開けた。
その顔を見てつい、頭突きを受けた額は大丈夫だろうかなどと、常磐は思ってしまう。
「話を邪魔しちゃ悪いと思って、外で待っていたんじゃないか」
「じゃあ、黙っていろ」
「いや、あまりにも常磐さんがハッキリしないものだから」
言われて常磐は霧藤を見た。
「せっかく、鈴が自分を利用しやすいような条件を提示してくれているのに」
にっこりと笑って言った霧藤の言葉に、常磐は愕然とした。
鈴が霧藤を睨む。
「何をくだらないことを言ってるんだ」
「鈴はそういうのうまいよね。相手が気を使わないように、それが自分の利益にもなるんだと均衡をとるのが」
「そうやって、人の心に裏を見つけたがるのは、精神科医の職業病か」
皮肉のこもった笑みで霧藤を見る鈴に、同じく茶化したような笑みで鈴を見る霧藤。
「さあ。そうかもしれないね。でも、灯君のときにも、鈴は同じようなことを言っていただろ?」
灯にも。
灯と鈴の関係に、ギブアンドテイクという言葉を使ったのは、常磐自身だ。
そうか。
そういうことか。
常磐は立ち上がり、霧藤を見た。
「俺はこれからも、事件を解決させるためなら手段は選びません。たとえば、それが朝日奈さんの手を借りることだとしても、俺はそれを選びます。きっと、そのたびに後悔することになってもです」
そして、今度は鈴を見た。
「俺は朝日奈さんの事件を調べます。でも、それは朝日奈さんとは関係ありません。これは、俺が、あんな事件の犯人が、今だ捕まっていないなんて許せない、絶対に捕まえなきゃいけないんだっていう、刑事としての俺の……単なるエゴです」
鈴は頬杖をついたまま、黙って常磐を見上げている。
「なので、先ほどの話はなかったことにしてください。……失礼します!」
ぺこりと頭を下げると、常磐は店を出て行った。
「……で、結局、何が変わるんだ?」
鈴は霧藤に訊いた。
結局、鈴は常磐に力を貸すし、常磐は鈴の事件を調べる。
ただ、常磐の罪悪感の重さは、軽くなることはなかったが。
「……覚えたての言葉を使いたかったんじゃないかな」
「小学生か」
「まあ、常磐さんがあれで満足ならいいじゃないか」
「面倒くさい人だ」
「もっと面倒な人が残っているんじゃないか」
「お前か」
霧藤は肩をすくめた。
「なんで僕なんだ。灯君だよ」
「お前の相手が一番面倒だ」
言いながら座敷部屋を鈴は出た。
「頑張って」
霧藤は手を振りながらそれを見送る。鈴は霧藤を睨んでから、二階へと上がっていった。
「常磐君、もう帰られたんですか? 上着を渡し損ねたなぁ」
大酉が鈴が借りていた常磐のジャケットを手に、座敷を覗いた。
霧藤は菓子の籠に手を伸ばした。
「ああ、まあ、また来るでしょうから、いいんじゃないですか」
「そうですか」
「ええ。なので、くれぐれも宜しくお願いしますよ、大酉さん」
「……今、お茶をお持ちしますね」
大酉は言うと、厨房に戻っていった。