第八章・2
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霧藤は蜃気楼の店内の明かりが点いていることに、首を傾げて腕時計を見た。
確かめるまでもない。とっくに閉店時間は過ぎていて、いつもなら店は消灯されているはずの時間だ。
いつもと違う様子に、霧藤は店のドアに手をかけて、それが開いたことにも小さく驚く。閉店後のドアは閉められていて、霧藤も合鍵を持っている裏口からでないと、中には入ることができないことになっているからだ。
ドアベルがわずかな音を立て、握り合わせた両手に額をつけながら、カウンター席に座っていた大酉が、顔を上げて霧藤を見る。
「何かあったんですか、大酉さん」
ひどく疲れたような大酉の顔。
「鈴がまた何か」
蜃気楼が中心の生活の中で、大酉が気を揉むことがあるとすれば、それは店のメニューや経営以外のこととなると、鈴のことしかない。
「霧藤さん。私は、鈴さんにとって、私がどうするのが一番いいことなのか、よく分からないんです」
泣き言のようにも聞える言葉をつぶやく大酉に、霧藤は無表情だった。
「困ります。大酉さんがそんなことじゃあ。もっとしっかりしていただかないと。鈴のためにも」
「私は、鈴さんが望むようにしたいと思うんです」
「甘やかすだけが優しさじゃないでしょう? 僕はあなたに鈴の言いなりになってほしいわけじゃないんですが」
「でも! 私にはそもそも、そんな権利はないはずだ」
「そうですね」
どこか冷たさを感じる霧藤の口調に、大酉が眉を寄せる。
「あなたにあるのは責任です」
「……」
「お忘れなく」
言葉を失いうつむいてしまった大酉に、霧藤はそれ以上問いかけるのをやめ、座敷部屋へと向かった。そこでは部屋の隅で、抱えた膝に顔を埋めるようにして灯が座っていた。
「灯君」
呼びかけるが反応はない。
「鈴はどこかな」
無視を決め込む灯に、霧藤は灯にも聞えるように、わざと大きな溜息をついた。
「まったく。大酉さんも、君もついていて、どうして鈴一人、止めることができないのかな」
「……あんたは鈴様が外に出るのは賛成だって言ってたくせに」
灯が膝を抱えたまま、ボソボソと言った。
「ちゃんと聞いていてほしいな。最近の鈴の行動は危険を伴うって言ったじゃないか。天気がいいから、散歩に出たいというのとは違う。それなら喜んで行くべきだと言うよ」
呆れたように霧藤は肩をすくめる。
「君なら鈴の抑止力になると思ってたんだけどね」
「大酉が邪魔しなければ止められてたわよ!」
淡々とした霧藤の声が、逆に神経を逆撫でるのか、灯は顔を上げ霧藤を睨みつけると、声を荒げて言った。しかし、霧藤の表情は変わらない。
「僕が言っているのは、君の能力のことじゃない」
灯が鈴に触れることで、鈴から眠りを奪うことができるということは、霧藤も知っている。
抑止力とは、鈴にワタリをできなくする、その力のことだと灯は思ったのだが。
灯は怪訝な表情になる。
「もっと感情的な話だよ」
「感情?」
「君が願えば、鈴は自分よりも君を優先すると思ったんだ。自分を慕い、自分の身を案じる者の存在があれば、自暴自棄な行動を簡単に取ることはない」
灯は目を見開いて霧藤を見た。頬が熱を持ち始めたのを感じる。
簡単に言えば、鈴が灯のことを想うならば、鈴を想う灯の願いを聞き入れるだろうということだ。
「……そう思っていたんだけど、違ったみたいだね」
胸が締め付けられるような苦しさに、灯は霧藤から視線を逸らす。
霧藤はそれ以上は何も訊かず、腕の時計を確認して、蜃気楼を出ていった。