第七章・3
―3―
『眠らせない』
灯は確かにそう言った。
いったいどういう意味なのだろうか。
タイミングを計るように一歩、鈴へと近づく灯。鈴が警戒しながら逆に一歩下がる。
「灯ちゃん、ちょっと待って」
鈴と灯の間に入った常磐だが、
「邪魔よ!」
灯に思い切り突き飛ばされる。灯の思っても見なかった強い行動に、常磐は不意をつかれ畳に派手に尻餅をつく。
「大酉!」
鈴が険しい声で大酉の名前を呼んだ。その声の鋭さに、大酉が驚いたように座敷へと飛んでくる。
「鈴さん?! どうしました」
「灯を押さえてくれ」
鈴が言ったとたん、灯が鈴に掴み掛かった。左手で鈴の片腕を掴み引き寄せると、右手を鈴に伸ばした。大酉が身を挺してそれを妨害する。
「どきなさいよっ!」
「やめるんだ、灯ちゃん」
大酉が灯の両手首を掴むと、鈴の腕を掴んでいた手が外れる。
「行ってください、鈴さん!」
大酉の言葉に頷いて鈴は常磐を見た。常磐もそれに頷き、座敷部屋を急いで出る。
「ごめん、灯」
最後にそう灯に言って、鈴は店を出た。
店の外にはパトランプをつけた黒いセダンが待っていた。運転席には西山。
常磐は後部座席のドアを開いて鈴を乗せると、続けて自分も乗り込む。
「西山さん。出してください!」
「遅いっ」
西山が少し苛ついた様に、車を発進させる。
サイレンを鳴らしながら走り出した車の勢いとは逆に、のんびりとした仕草で鈴はシートベルトを閉める。
西山はそんな鈴をバックミラーでチラと見て言った。
「ごめんなさいね。こっちの都合に付き合わせて」
鈴はシートにだるそうにもたれながら、窓の外にぼんやりと視線をやる。
「いいえ。ただし、お役に立てるか分かりませんよ」
「ええ。こっちは藁をも掴む気持ちなの。うまくいかなくても仕方がない。それは君のせいじゃないわ」
「そうですか」
常磐は鈴が灯に掴まれた腕をさすっているのに気がついた。
「あの、平気ですか」
「平気です」
「そう……ですか」
会話が続かず、常磐は鈴とは反対の窓の外に目をやる。
「説明しないわけにはいきませんね」
鈴が窓の外に目をやったまま言った。灯のことだろう。
「いえ、俺は別に」
「そうですか? じゃあ、無理に説明するつもりもありませんが」
「……やっぱり伺っておきます」
この先、改めて訊こうとしても、おそらく答えてはくれなさそうだ。
鈴は優柔不断な常磐の態度に、一瞬呆れたような表情をしたが、シートに預けていた体を起こすと話しだした。
「俺が寝ている人間に触れる事で、その人の意識に入り込むことができるように、灯は俺に触れることで、俺から眠りを奪うことができる」
「え?」
「俺のを『夢ワタリ』と言うなら、灯のは『夢喰い』とでも言うんですかね」
「眠りを……」
そんなことが本当に……と思ったが、常磐自身、もはや普通ではないし、目の前の鈴の力もすでに体感済みだ。そういった力のことを、否定することはもうできない。
「灯に眠りを取られると、取られた分、俺は眠れなくなります。もちろんワタリもできません」
だから、あのとき灯は眠らせないと言ったのか。
「また、灯はそうやって俺から取る事でしか、眠りを得る事ができない」
「え、じゃあ、普段は眠らないってことですか?」
「正確には“眠れない”です」
鈴とは逆ということか。
「元々は愁成の患者でした」
「ああ、なるほど」
「でも、精神的なものからくる不眠症とは、やはり違ったようです。そもそも、灯の不眠は、物心ついたころにはすでにあったそうなので、精神不安などが要因ではない。眠るということそのものが、灯には理解できない行動なんです」
常磐はふと考えて、
「あ、それなら朝日奈さんは、灯ちゃんに眠りを取ってもらえば、起きていられるってことじゃない……ですか」
言いだした常磐は、途中で鈴が不機嫌な顔になったことに気がついて、語尾を小さくする。
「それは俺が起きている間、灯に寝ていろということになる。例えば昼間、俺がずっと起きているためには、その間、灯はずっと眠り続けなくちゃならない。俺は灯にそんなことをしてもらってまで、起きていたいとは思わない」
常磐は灯が言っていた言葉を思い出した。
『鈴様は私が必要とするほどには、私を必要とはしてくれない』
「……灯ちゃんはどう思ってるんですか? 眠るということについて」
「灯にとって手に入れた眠りはひどく心地のいいものらしいです。目覚めたときには、頭がスッキリして体調もいいらしく、まるで副作用のないドラッグだと、灯は言っていたことがある」
その表現は感心しないなと、常磐は思った。
「それなら、いいんじゃないですか?ギブアンドテイクってことで」
「もちろん、俺も必要な眠りを、灯には与えられればと思ってます。でも、それに依存してほしくない。灯に必要なのは、眠る眠らないに関わらず、灯を理解できる人間だ」
「朝日奈さんの眠り病が危険だということは、俺も分かりましたけど、眠らないでいられる分には、なんの問題もないんじゃないんですか?」
鈴はそれを聞くと、苦笑して常磐を見る。
「それを言った時点で、常磐さんは灯の理解者としては不合格だ」
「……すみません、役立たずで」
ふとバックミラーを見ると、西山が鈴と常磐のやり取りに笑いを堪えているのが映っていて、常磐は少しふてくされた。