第一章・1
第一章
―1―
霞野署刑事課の新米刑事、常磐 要は、その店の前に来て、がっくりと肩を落とした。扉にある『営業中』の札の下に掛けられた、『就寝中』というおかしな札を目にしたからである。
蜃気楼という不思議な名前のその店は、和風の喫茶店で、和菓子とお茶のセットがおいしいのだが、常磐の目的はそれではなくて……。
「あれ、こんにちは、常磐君」
店の扉が開いて、中から着物姿に前掛けをした男が出てきて言った。癖のある髪を小さく後ろでまとめた、歳は四十前後のその男は、丸眼鏡をかけた人の良さそうな笑顔で首を傾げる。
「どうも。こんにちは」
常磐は男に軽く頭を下げた。
男の名は大酉 圭介。この店を切り盛りしているマスターだ。
「鈴さんに用かな?」
店の中にあった観葉植物を、日に当てるためなのか、外へと出しながら大酉は言った。
大酉の言うとおり、常磐はこの店にいる、朝日奈 鈴という人物に会いに来たのだ。しかし……。
「ごめんね。鈴さんは……」
「はい。承知してます」
常磐は扉に掛けられている『就寝中』の札を指さした。
常磐が会いに来た鈴という人物は、『眠り病』の持ち主で、時間や場所を選ばずに眠りに落ちてしまうため、扉に掛けられている札が『起床中』となっていないと会えないという、少々やっかいな人物なのだ。
「また、何か夢でも見たのかな」
大酉の言葉に、常磐は少し気まずそうに視線を落とす。
この蜃気楼は、和風喫茶店ということになっているが、実はお茶を飲む目的で来るよりも、別の目的で来る人間の方が多い。
「さっきも、夢占をしてくれって女性が来てね」
複雑な顔で笑う大酉。
そう、蜃気楼では鈴のやっている夢占いが目的の、若い女性客の方が多いのだ。見た夢が持つ意味や、その夢を見たことで分かる、その人の潜在的意識や未来を占うのだそうだ。
しかし、常磐の目的はそんなにファンタジーなものではなくて……
「また、何か事件が?」
大酉が顔を曇らせる。
常磐がときどき見る夢、それは“犯罪者が見ているのと同じ夢”なのだ。
理由は分からないが、常磐は犯罪者に同調し、犯罪者が夢を見ていると、自分も同じ感覚でその夢を見てしまうのだ。
そして以前、その夢をきっかけに犯罪が起こる寸前で食い止めたことがある。
そのときに協力をしてもらったのが、鈴だった。事件を解決するためとはいえ、鈴を事件に巻き込み、少なからず危険な目に合わせたことは、反省をしている。
でも、常磐には鈴の持つ“特別な能力”が必要だった。
「いえ、出直します」
言って、常磐は帰ろうとしたのだが、
「常磐君」
大酉に呼び止められる。
「はい?」
「今日のおすすめは、豆大福と緑茶のセット、五百円」
にこにこと満面の笑顔で言う大酉に、
「……いただきます」
断ることができなくて、常磐は店の中へと入ることにした。
常磐は目つきの悪い不良顔に似合わず、甘い物は好きな方で、蜃気楼の味は常磐好みということもあり、強く断ることができない。以前の事件で左目の下についた傷のせいで、さらに柄の悪くなった顔を苦笑で歪ませて、カウンター席に着く。
ちらりと店の奥に目をやると、扉の閉められた座敷部屋がそこにはある。占い部屋として使われているそこに、鈴はいる。
本当は昨日見た夢について、鈴の意見を聞きたかったのだが、おそらく皮肉たっぷりの言葉で、自分の訪問に不快感を示すであろうことは確かだったので、少しホッとしている自分もいることを、常磐は自覚していた。
もう少し、自分でも調べをつけてから、改めて鈴には話を聞こう。
常磐は考え直し、運ばれてきた豆大福にかじりついた。