第六章・2
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灯は二階の住居から蜃気楼へと降りて来た。開店前の店は静かだが、開店しても客が押し寄せるわけではない。
座敷部屋の前に立つと、灯はそっと戸を薄く開けて中を覗いた。しかし、そこに鈴の姿はない。顔を曇らせる灯だったが、厨房の方から上品な甘い香りがしてくるのに気が付いた。
「あれ、灯ちゃん? ああ、そうか、今日は休みだっけ」
灯が厨房を覗き込むと大酉が言った。その横では鈴が着物に前掛けをした姿で、火にかけた鍋の中身を木ベラで混ぜている。
「おはよう」
鈴は鍋を混ぜる手を休めずに言う。
「おはよう……ございます」
小さく返事をして、鈴の傍に遠慮がちに近づく灯。
甘い香りは鈴の手元の鍋からしてきていた。
「こし餡作りをしているんだよ」
灯にそう言った大酉は、ボールに入れられた白い粉を練りながら鈴の作業を見ている。
火を使う作業では、少しでも鈴に眠りの兆候が見られた場合、すぐに対処しなければならない。
しかし不思議なことに、これまでに菓子作りの途中で、鈴の眠り病が発症したことはなかった。
黙々と作業を続ける鈴に、灯は手伝うこともできず、手持ち無沙汰といった様子で鈴の後ろに立つと、首をちょっと傾けて鈴の顔を伺った。
菓子作りをしている鈴の表情は真剣だが、それが不機嫌なように見えなくもない。
昨夜のストーカー作戦。
実は鈴にだけは内緒にしていたのだ。鈴が聞いたら反対する気がしたし、心配されるのは嫌だった。
男はもう捕まった。もう鈴が心配することは何もない。帰ってそのことを伝えると、鈴は一瞬眉を顰め、「そう」と一言だけ言うと、部屋の戸を閉じてしまったのだ。
なんだか一度目の前で閉じられてしまった戸を、再び開けるのは躊躇われて、灯は自分の部屋へと行くしかなかった。
内緒にしていたことを怒っているのだろうか。
「灯」
「は、はいっ」
急に名前を呼ばれて驚く。
鈴は小さなサジに鍋の中身を少し掬うと、ふうと息をかけて冷まし、灯へと差し出した。
「?」
首を傾げ、サジを見つめる灯に
「味見」
鈴は、あーんと促すように自分も口を開けて、灯の口元にサジを近づける。
灯は少し戸惑い、それから恥ずかしそうに、鈴の手からサジを口に含んだ。
滑らかな口当たりのそれは、口の中で溶けるようになくなった。上品で優しい甘みが口に広がる。
「どう?」
「……おいしいです」
素直に答えた灯の言葉に、鈴は自分も餡を一サジ掬うと、やはり冷ましてから口に運んで味わい、納得したように鍋を火から下ろした。
「出来ました?」
大酉は自分の作業を終えて、洗った手を拭きながら言った。
「うん」
鈴はその大酉にも同じように味見のサジを口元に差し出す。大酉はそれを口に含むと笑顔になった。
「ああ、いい味ですね。冷めれば少し甘みが増すはずですから。とてもいいと思いますよ」
そして、大酉はなぜか灯が自分を睨んでいるのに気が付いた。
「……わ、私、何かしたかな? 灯ちゃん」
「……なんでもないわよ」
不機嫌な声で灯は言った。
しかし、どうやら鈴は怒ってはいないようだということは分かった。
「灯、俺は別に灯のやることに反対したりはしないよ」
布巾の上に餡を移しながら言った鈴の言葉に、灯はハッとする。鈴はちゃんと灯が鈴の様子を気にしていることに気づいていた。
「ただ、灯に何かあったときに、俺だけ何も知らなかった奴にしないでほしい」
「……」
「俺が何かいい方法を思いつくことも、あるかも知れないし」
返事のない灯に、鈴は作業の手を止めて灯を見た。灯は鈴から顔を逸らし、眉間に皺を寄せて床を見つめている。
「灯がいなくなったら、俺、困るよ」
「嘘……」
「なんで? 灯が一番分かってるはずじゃないか」
「だって……」
「俺は灯が思っているよりも、灯のことを必要だと思ってるよ」
鈴のその言葉に、険しかった表情を緩めて灯は鈴を見た。
鈴の顔は控えめだが笑顔で、灯にも笑顔が戻る。
「それじゃあ、せっかくだから、灯にも手伝ってもらおうか」
「え?」
唐突に言った鈴に、灯はキョトンとする。
「どこか出かける用事でも?」
鈴は先ほど大酉が練りあげた団子の種を手に取ると、丸めだした。
「ない……ですけど」
「じゃあ、ほら、手を洗って」
「はぁーい……」
渋々と手伝う準備をする、料理が苦手な灯の様子に大酉が笑うと、当然、灯の鋭い視線が返ってくる。
「……私、店の前を掃除してきますね」
団子作りをする二人を残し、大酉は厨房を出て行った。