第五章・1
第五章
―1―
バスから降りると、灯は空を見上げた。
月も出ていない今夜は、夜の闇を一層深く感じる。
委員の仕事は週に三回。その日はどうしても帰宅時間が少し遅くなる。とはいっても、真っ直ぐに帰れば、それはたいした時間ではない。
以前、家にも帰らずに外をほっつき歩いていた頃のことを思えば、早すぎる時間だった。
灯は鈴の言葉を思い出す。
『灯が帰らなかったら、俺は心配するよ』
ただそれだけ。だからどうしろということは、鈴は言わないし、灯が帰らない日があったとしても、それを追求してくるということもしない。ただ、そのことで鈴が心配をしているかもしれないと思うと、胸が小さく痛む。だから……。
鈴を心配させたくないから、ではなく、そんなことで痛む自分の心が嫌だから。
この気持ちが何なのか、分からない。
「鈴様はずるい……」
呟きを洩らして、蜃気楼へと続く路地へと入る。
電柱に付けられた街灯が切れかかっていて、チカチカとオレンジの光を時折見せながら瞬いていた。ただでさえ薄暗い路地は、街灯の光がないと真っ暗に近い。
灯は進めていた足の速度を、ふと遅くした。
これから向かう路地の先、蜃気楼へと続く急な階段へと差し掛かる辺りに、人が立っているシルエットが見えたからだ。
壁にもたれるようにして立っているその人影から、距離を取るように反対側の壁際を進む。
シルエットだったものが、やがてはっきりとコートを着て、そのフードを被った男だということが分かる位置に来たとき、男が動いた。灯を待ち受けるように、道の真ん中へと進み出る。
灯は前へと進めなくなった。
背中をぞわりと悪寒が走る。
思わず一歩後ずさった灯に、男は逆に一歩、灯に向かって足を踏み出してきた。男が手の平を上に灯へと手を伸ばす。灯は男から目を逸らさず、後ろへと後ずさった。
カツンと音がして、灯の足が転がっていた空き缶をはじく。灯が思わず後ろに目をやると、その一瞬を見計らったかのように男が一気に距離を詰めた。
男が灯を、その手首を掴んで引き寄せる。声を発しようとした灯の口元をもう片方の手が塞いだ。灯がその手から逃れようと、体制を崩して倒れる。
ビイイイイイイッ!
突然鳴り響いた激しい警告音に男がひるむ。灯の手には防犯ブザーが握られていた。男がブザーの音のけたたましさに、灯から手を離し耳を塞ぐと、その男に飛び掛った者がいる。
「警察だ。婦女暴行未遂の現行犯で逮捕する!」
倒れた男の腕を捻り上げたのは常磐だ。
男は抵抗を見せたが、視界に他にも男を逃がすまいと待機している人間がいることに、その力をあっけなく弱めた。
「大丈夫?」
灯を助け起こしたのは西山だ。
「はい、有難うございます」
「もう少し早く鳴らしてくれれば良かったのに」
「現行犯の決定力に欠けるかと思って」
灯はスカートの汚れを叩きながら立ち上がる。
「恐かったでしょう? もう大丈夫よ。これでストーカーの被害も、もうなくなると思うわ。後はこっちで調べるから」
西山の言葉に、灯と常磐は小さく目配せをする。
「お願いします」
灯が頭を下げる。
「顔、確認できる?」
被害者を気遣う優しい口調で西山に訊ねられ、灯は頷いた。
常磐が男の両手を背中に回して手錠を掛けると、立ち上がらせた。その顔を灯は見る。
思っていたよりも若い三十歳前後の男。意外にも顔は整っているが、乱れた髪が額に張り付いていて、その下にある瞳が怪しく灯を見つめている。
「知ってる人?」
「……分からない。どこかで見た気もする」
「そう、有難う。ごめんなさいね。また話を聞くと思うけど、今日はもう帰っていいわ」
「すみません」
「送りましょうか」
「いえ、もうすぐそこですから」
灯は軽く頭を下げ、蜃気楼へと向かう。階段の上に腕組をしながら待っているのは霧藤だ。
「うまくいったでしょ」
その横を通り過ぎるとき、灯は霧藤を小馬鹿にするような口調で言った。
「まったく。たいしたもんだよ」
感心したような、呆れたような声で返すと、霧藤は肩をすくめた。
そう、これは灯と常磐が立てた作戦だったのだ。