第四章・3
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蜃気楼へと帰るバスの中、最後部座席に鈴を真ん中に挟むようにして座る、常磐と灯。
商店街を通過すると、乗客はほとんど降りてしまって、常磐たちの他には中年の男性が、運転席後部の席に座っているだけとなった。
角を曲がる道で、ガクンと大きく揺れるバスに、力の抜けた鈴の首が左右に振られる。
灯は鈴の顔にかかった前髪をそっと払って、その寝顔を確かめるように見た。鈴の寝顔は穏やかで、灯の表情もどこか安心したように緩む。
そんな灯を見て、常磐は言った。
「君って、本当に朝日奈さんが好きなんだね」
しかし、それを聞いた灯が固まったように動かなくなる。そして、困惑したような目で常磐を見た。
「……今、なんて?」
「え? 君は朝日奈さんが好きなんだねって、言ったんだけど」
何か変なことを言っただろうか。
「なんでそう思うの?」
「は? なんでって……だって、どう見ても……」
しかし、灯のその言い方だと、
「違うの?」
「違う。……私は……あんたと同じ。鈴様を利用しようとしてるだけ」
意外な言葉が灯の口から出てきた。
「だけど、俺や他の人が、朝日奈さんに近づくのが嫌なんでしょ? 君は朝日奈さんにだけは、嫌われたくないみたいだし」
それは嫉妬という奴ではないのか。
「困るもの。鈴様が私の傍からいなくなるようなことがあったら。私は鈴様が必要。だけど私が必要とするほどには、鈴様は私を必要としてはくれないから」
「……でも、朝日奈さんは灯ちゃんの事好きなんじゃないかな」
「それもない。今言った通り、鈴様は、私が鈴様を必要とするほどには、私を必要としてくれていない」
怒るかと思ったが、灯は淡々と答える。
「俺はそんなことないと思うけど。朝日奈さん君のこと、すごく心配してたし。俺の夢に君が出てきたことを話したら、すぐに迎えに行くって言い出したんだよ?」
常磐が言うと、灯は鈴を見て小さく微笑む。
「鈴様は優しい。でも、鈴様がそういう目で私を見ることはない」
お互いを思う気持ちが、利用するためとか、必要性だけだなんて。常磐には灯の気持ちが分からなかった。
◆◆◆◆◆◆
鈴を背負って、蜃気楼へ向かう細い路地を入り、急な階段の上まで来ると、店の前で大酉がそわそわとしながら立っているのが見えた。
あんな風に店を飛び出してきたのだ。心配したのだろう。大酉は常磐たちの姿を見て、ホッとしたような笑顔で手を振る。
常磐はずり落ちてきた鈴の体を、一度上げるように背負い直し、階段を下りようとして、店の中から出てきた人物に気がついた。
ピシッとしたスーツ姿、ただ立っているだけなのに絵になるその男は、腕を組みながら、こちらを冷めた目で見上げている。
そう、霧藤 愁成だ。おそらく大酉が呼んだのだろう。
「ちょっと、何突っ立ってんのよ。早く来なさいよ」
先に階段を下り始めた灯が言う。
「うん……」
行かないわけにはいかない。しかし、常磐には霧藤の顔を正面から見ることはできそうになかった。
「おかえり」
抑揚のない霧藤の声が、逆に恐い。
「どきなさいよ。中に入れないじゃない」
灯は霧藤の前でも動じることなく、いつものように言ってのけた。すごい子だ。
霧藤がドアを開けて、灯は中へと入る。
「どうも……」
顔を隠すようにペコと頭を下げて、常磐も後に続く。
「こんばんは。常磐さん」
恐い……。
店の中に入ると、大酉に座敷へと促されて、敷かれた布団の上に鈴の体を横にする。
「どのくらい?」
霧藤が鈴の手首を取り、脈を計りながら訊いた。
「三十分ほど前に」
ボサッとしている常磐に代わり灯が答える。
「常磐さんには、お話ししたはずですよね? 鈴の最近の体調については」
「はい……。伺ってます」
「それなのに、なんで鈴を外に連れ出すなんてことを」
険しい顔をする霧藤に、主人に叱られた飼い犬のごとく常磐がしょげていると、大酉が助け舟を出す。
「鈴さんは、ご自分で店を出て行かれたようですが」
「でも、鈴をそういう行動に駆り立てる何かを持ち込んだのは、常磐さんですよね」
「すみません……」
反論する余地はない。
「鈴様だって、たまには外に出たいと思うのよ」
苛々したように口を挟んだ灯を霧藤は見て、嫌味の混じった笑みを浮かべる。
「もちろんだよ。ただ鈴は現在の自分の状態をよく理解している。たとえ外に出たいと思っても、そのことで周囲にかける迷惑を考え、自分を制御していたはずだ。むしろ僕は、外との繋がりをもう少し持つように、鈴には言ってきた。でも、それとこれとは別の問題だ。最近の鈴の行動は突発的で危険を伴う。それに……鈴を閉じ込めておきたいのは、君だろう?」
霧藤の言葉に、灯は唇をキュッと結ぶ。言い返さないのは、おそらく霧藤の言っていることが当たっているからだろう。心を見透かされたことによる羞恥のせいなのか、霧藤への怒りのせいなのか、灯の頬は赤く染まっていた。
「ああ、でも、聞くところによると、鈴は君を迎えに行くと言って出ていったそうだね」
「俺の夢に灯ちゃんが出てきたんです」
常磐の一言で、霧藤はすべてを理解したように眠っている鈴を見た。
「なるほどね。……それで、これからどうするつもりです? 常磐さんが毎日、灯君を迎えに行ってくれるんですか」
灯に危険が及ぶ可能性があり、それを回避するためなら、それぐらいは……と常磐は思ったが、
「いらないわよ、そんなもん」
当の本人に拒否された。
「さて、どうするかな」
霧藤は少し大げさとも思える溜息をついた。