第三章・3
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大通りから路地を一本入り、住宅街へと向かう細い路地の、急な階段の上。僕は少女の帰りを待っている。階段の下にある小さな店が、彼女の家だからだ。いや、そこが彼女の本当の家でないことは知っている。
そう、僕はそれを知っているのだ。
胸になんともいえない感情が溢れる。可哀想に。きっと彼女は苦しんでいるだろう。
大丈夫。僕は分かっている。
彼女がどんなに苦しんでいるか。そして、彼女が本当はとてもいい子だということを。
そう、彼女はとてもいい子なのだ。なのに、彼女の両親はそれをまったく理解していない。
大丈夫。僕はちゃんと知っているよ。
道の向こうから彼女がやってくるのが見えた。今日は学校の委員会があって帰りは遅くなる。彼女は委員の仕事もちゃんと真面目にやっているから。本当にいい子だ。
彼女は僕に気づくと、警戒心を露わにした、いぶかしげな表情をする。そう、初めて会ったときも、君はそんな顔をしていたね。そして、時々汚い言葉を口にする。でも、それを本心で言っているんじゃないんだよね。君は本当は優しい子なんだから。
僕は彼女の前に立った。立ち止まる彼女に手を差し伸べる。
彼女は僕を見て、やがてにっこりと嬉しそうに微笑むと、僕の手をしっかりと握り返した……。
◆◆◆◆◆◆
「!」
常磐はハッとして、周りを見た。
刑事課は、皆それなりに忙しくしていて、常磐の居眠りに気づいている者はいなそうだった。
また、あの夢だ。
壁に掛けられている時計を確認すると、居眠りしていたのは、ほんの数分だったようだ。
それにしても……。
ゴクリと唾を飲む常磐。
「常磐ー。お前、暇ならちょっと煙草買いに行ってこないか」
東田がデスクで始末書を書きながら言った。
先日、訊き込みの際に、少々生意気な一般市民の男子学生が、目撃情報を出し惜しみしたのに対して、闇金の取り立てのごとき暴言で、無理に話をさせようとしたのだが、後になって、その学生が警察に苦情を言いに来たのだ。
手を出したわけではなかったので、始末書だけで済んだが、反省している様子は、残念ながら見られない。
「暇じゃないです」
言って、常磐は席を立った。いつものミリタリージャケットを羽織る。
「あん? じゃあ、どこに行くつもりだよ」
「……」
常磐は答えようと口を開いたが、そのまま少し考えて、
「……昨日まとめていた、下着ドロの報告書で、ちょっと確認したいことが出てきたので、害者の一人に話を聞きに行ってきます」
と言うと、そそくさと課を出て行こうとする。
「ちょっと待て!」
ドアを開ける常磐を、東田の鋭い声が呼び止める。
「な、なんですか」
「下着ドロの害者っていうと、若い女か」
「……四十歳の子持ちの主婦ですけど」
「……とっとと行って来い」
一気に興味をなくしたようで、東田はしっしと追い払うように手を振った。
なんなんだ……いったい。
「行ってきます」
常磐は外に出た。
うまくやれたわけではない。嘘はいけないと、やっぱり思う。
それでも、東田と議論している場合じゃなかった。
急がなくては。
常磐は蜃気楼に向かって走った。
夢の中に出てきた少女。
にっこりと微笑み、手を握り返してきた、あの少女。
現実の世界で、常磐に向けられることは絶対にないであろう、その笑顔は、間違いなく灯だったのだ。