第8話 三者交差
夜の冷気が、肌を刺した。
漆黒の鎖に引き裂かれた魔獣の残骸は、闇に溶けるように跡形もなく消え去っている。
その名残を留めるのは、静寂に包まれた荒野と、空気に漂う微かな鉄の匂いだけだった。
闇色の青年――イグが放った異質な力は、未だこの場に重く澱んでいる。
エズレンは無意識に喉を鳴らし、深く息を吸い込んだ。
張り詰めた空気が肺を満たす。それでも警戒心は解けない。
肩口では、雷霊たちが低く唸り、金色の火花を散らしていた。まるで主を守る盾と化したかのように、目の前の二人を睨みつけている。
彼らの敵意は、助けてくれたはずの存在にさえ向けられていた。
(……あの力。人間が扱える力じゃない)
未だ残る異様な余韻に、エズレンは微かに眉を寄せた。
それでも――この沈黙を破る必要がある。
警戒を押し殺し、彼は静かに口を開いた。
「……助けてくれて、ありがとう」
夜の闇を切り裂くように、澄んだ声が響く。
「僕はエズレン……今は南の街にある教会を目指していて、旅の途中だ」
言葉を終えた瞬間、ふわりと雷霊たちがエズレンの周囲を舞う。
しかし彼らは、依然として目の前の二人に向かって微細な雷を弾き、警戒の姿勢を崩さない。
その様子に、2人は揃って眉を上げた。
「……え、そんだけ?」
「名前と行き先しか言わないなんて、ずいぶん控えめだね」
イグがくつくつと喉を鳴らす。
黒曜石のような髪が風に揺れ、紅玉石のような切れ長の瞳が、獲物を見据えるように光った。
まるで闇を統べる王のようなその姿に、フルグリスたちはさらに身を震わせる。
「おいおい、そんだけ精霊に懐かれてて、それで終わりか? 何者なんだよ、お前」
低く掠れるような蠱惑的な声が、夜気を震わせるたび、精霊たちの火花が激しさを増す。
一方、彼の隣に立つリウは、穏やかに微笑んでいた。
「僕も気になるな。精霊って、普通はこんなに人に懐かないものだけど」
蜂蜜が滴るように、蕩けるような甘い声。
光を集めて溶かしたような金髪が淡く輝き、優美な立ち姿が月明かりに映える。
そして、彼の一番の特徴はその瞳――長い睫毛の下には、時間そのものを閉じ込めたかのような、幻想的な双眸が静かにエズレンを見つめていた。白銅色とも金春色ともつかない光を揺らめかせ、全てを見通すように。
(……彼も、普通の人間じゃない)
だが、エズレンは視線を逸らさない。
眉をひそめ、肩をすくめる。
「……その言葉、そっくりそのまま返すよ。君たちこそ、何者?」
即座の切り返しに、イグは驚いたように目を瞬かせた。
しかし、次の瞬間には不敵な笑みを浮かべ、顎を軽く上げる。
「俺はイグナシウス。今は――力の修行中、ってとこだな」
旅の目的を、あくまで簡潔に、誤魔化すように言葉を濁す。
続くリウは、柔らかな笑みを湛えたまま答えた。
「僕はリウィアン。君と同じで、イグと2人旅の途中なんだ。偶然魔獣を見かけて――助けずにはいられなくてね」
温かみのある声音とは裏腹に、その瞳にはどこか冷静な探求心が宿っている。
エズレンは彼らの態度に、微かな違和感を覚えつつも深く追及しなかった。
沈黙が落ちる中、再び声を上げたのはリウィアンだった。
「君、南の教会を目指してるんだってね?それなら、僕たちと一緒に行かないかい?」
「オイ勝手に決めんなよ、リウ!」
すかさず反論するイグナシウス。
しかし、リウィアンは意に介さず、彼の耳元にそっと囁く。
「(気になるでしょう? この子、どうして雷霊にこんなに懐かれてるのか……)」
その言葉に、イグナシウスの表情がわずかに険しくなる。
「(……確かに) まぁ、いい。行くぞ」
低く呟くと、エズレンの腕を強引に引いた。
「え、ちょっと――」
抗議の言葉を口にする間もなく、彼は歩き出す。雷霊たちは主の動きに従いながらも、依然として二人を見据え続けていた。
こうして三人は、それぞれの秘密を胸に、同じ目的地を目指して歩き始めた――
◆
月光が細く差し込む荒野を、三人は並んで歩いていた。
冷え込み始めた夜風が頬を撫でるたび、エズレンの肩口で雷霊たちがかすかに火花を散らす。
先ほどまでの緊迫した空気は和らいでいたが、イグナシウスとリウィアンの間には微妙な温度差がある。
イグナシウスは気怠げに前を歩き、リウィアンは上機嫌にエズレンの隣を陣取っていた。
そんな中、ふと沈黙を破ったのはリウィアンだった。
「ねえ、エズレン。君はどうして南の教会を目指しているの?」
夜風に乗せた問いかけは、どこか好奇心を含んでいた。
イグナシウスがちらりと視線を向けたが、特に口を挟もうとはしない。
エズレンは少し迷った末に、正直に答えることにした。
「……神々の記録について、知りたいことがあって」
「へえ、珍しいね」
リウィアンが興味深そうに身を乗り出す。
「君はどの神様に興味があるの?」
「...雷神アストラグスだよ。僕にとって、一番縁のある神だから」
雷霊たちがその言葉に呼応するかのように、小さく弾ける。
「ああ、雷神かぁ……荒々しくも誇り高い神だよね。だけど雷を司る神はアストラグスだけじゃないんだよ」
リウィアンはまるで待っていましたと言わんばかりに、語り始めた。
「十柱の主神で雷を司るのはアストラグスだけど、雷に関係する神々は他にもいてね。『嵐を統べる女神ライメリア』もいるし、雷雲と空を繋ぐ役割を持つ『風の神ゼフィール』もいる。あと雷神と相性が良いと言われる『癒しの神ヴェラティア』ね。実際この辺りはヴェラティア信仰が強くて、豊穣を祝う祭りや儀式が多い土地なんだよ。アストラグスは純粋な雷の他に、裁きや天候を司る権能を持つけど、他の神々にもそれぞれ特徴があって――」
次々と流れるように神の名を挙げ、詳細に語り尽くすリウィアン。
エズレンが呆気にとられていると、その横でイグナシウスが心底うんざりした様子でため息をついた。
「……おい、お前」
不機嫌そうに口を開き、エズレンを睨む。
「二度とこいつの前で神の話はするな。止まらねえから」
「え?」
エズレンが瞬きをする間にも、リウィアンの神話講座は続く。
「ちなみに雷神アストラグスは古い神だから、記録も膨大なんだ。神話時代には天上の怒槌を振るって魔を討ち、他の神々とも対等に渡り合ったと言われてる。だけど彼って感情の起伏が激しくてね、時には雷で山を吹き飛ばしたり、大海を割ったりするくらい荒ぶることもあるんだ――」
「な?」
イグナシウスは肩をすくめ、興奮する様子のリウィアンを指差した。
「(だから二度とすんなよ。特に時の神の話は気をつけろ、今の5倍は話すぞ)」
「(……うん、気をつける)」
イグナシウスに耳打ちされ、エズレンが苦笑交じりに了承を返すと、リウィアンは少し頬を膨らませた。
「もう、ちゃんと聞いてる? 僕が神々の話をする機会なんて、そうそうないんだからね?」
「いや、聞き飽きてんだよ」
イグナシウスは呆れた様子で手を振ったが、リウィアンは構わず話を続ける。
「エズレン、君が記録を調べたいって言うなら、教会に行くのは正解だよ。神官たちは神話に精通してるし、アストラグスに関する文献も揃っているはずだからね。ただ、今目指している教会には雷神の“使い”が降りているとは聞いたことがないから、神託の書の類はないかもしれないけど、もし詳しく知りたいなら、僕が案内しても――」
「……君は、神官様なの?」
思わず問いかけると、リウィアンは言葉を切って、微笑みを深めた。
「...まあ、似たようなものかな?」
その答えは、どこか曖昧だった。
エズレンは彼の柔和な表情を見つめながらも、内心で違和感を覚える。
(彼はただの神官じゃない――それだけは、確かだ)
それでも、今は深入りしないことに決めた。
そんな彼の思考を遮るように、イグナシウスが足を止める。
「この辺で野営するぞ。夜道を歩き続けても仕方ねえしな」
手早く焚き火を起こしながら、彼はちらりとエズレンを見た。
「お前、疲れてねえか?」
「? 平気だよ」
エズレンがそう答えると、イグナシウスは一瞬だけ目を細める。
「ま、無理すんな」
ぶっきらぼうな言葉に、エズレンは軽く頷いた。
三人の間には、先ほどまでとは違う、奇妙な連帯感が芽生え始めていた。
それぞれが秘める真実を明かさぬまま――彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。