第7話 宵闇と時光
森の奥深く、湿った空気が肌を撫でる中、エズレンは一人、雷の魔法を試し続けていた。
指先に宿す小さな雷光――“雷閃”。それを放つたびに周囲の空気が微かに震え、放電の匂いが鼻をかすめる。
「……もう少し、出力を抑えれば……」
呟くと同時に、また指先から淡い光が弾けた。前よりは制御できている――はずだが、どうにも手応えがつかめない。
しかし、その繰り返しに呼応するかのように、見慣れない存在が現れる。
透ける身体に雷光を帯び、小さな狼のような形をしている――下級雷霊フルグリスだ。
「……精霊?」
本で得た知識と目の前の存在を結びつけるのに、しばらく時間がかかった。なにせ精霊は人間に滅多に姿を見せない、と言われている。だが、彼の周囲には次々と現れ、戯れるように舞い始める。
その様子に戸惑いながらも、恐る恐る手を差し伸べると、好奇心旺盛な一匹が彼の指に止まった。微かな静電気がくすぐったく、思わず口元がほころぶ。
「懐いてる、のか……?」
不思議な感覚だった。雷を好む彼らに、選ばれたような――そんな心地すら覚える。
しかし、その穏やかな時間は、突然破られることとなった。
ガサッ――
不穏な音が、深い森の静寂を引き裂いた。
茂みから姿を現したのは、異様な魔獣。
黒くねじれた角に、異様に発達した四肢。爛々と輝く赤い瞳が、じっとこちらを見据えている。
(……まずい…)
エズレンは息を呑み、思考が止まる。
魔力の扱いに未熟な彼には、これほどの存在と対峙する準備はなかった。
魔獣が低く唸り、エズレンを目掛けて一気に跳躍する――
「“闇鎖”」
冷たい声とともに、黒鎖が虚空から顕現し、魔獣の四肢を絡め取った。
「……っ!?」
驚くエズレンの視線の先に、黒衣を纏った青年が立っていた。
深紅の瞳が闇の中で怪しく光り、周囲の空気が一瞬で張り詰める。
状況を把握しきれないまま、エズレンは動けなかった。
「動くな、愚か者」
魔獣を睨みつけながら、闇色の青年は小さく鼻を鳴らし、僅かに口角を歪める。
「魔界の住人が人間界へと現れるだけでなく――この俺を前にして退かぬとは……何とも愚鈍な奴だ」
嘲るような独白が、森の静寂に響いた。
「油断しないで、イグ」
涼やかな声が、もう一つ。
光を集めたような蜂蜜色の金髪を靡かせ、もう一人の青年が歩み出る。
「“時環の檻”」
光を纏う青年が指先で空に円を描くと、淡く輝く檻が魔獣の周囲に形成された。
まるで時間を停滞させるかのような結界が、魔獣の動きを鈍らせる。
「…これでも完全には止められないか、厄介だね」
エズレンは、ただ呆然とその光景を見つめていた。
(――これは魔術...じゃないよな?)
ゼスのもとで暮らす間、膨大な量の魔術書を読み漁っていたエズレンには、彼らが操る力はどの魔術理論にも該当しないと思われた。
(何者なんだ、この人達……)
イグ、と呼ばれた青年が舌打ちをしながら、さらに黒鎖を強化する。
「...チッ、おいリウ!こいつは“ファントム”の変異個体か何かか?」
イグは低く呟き、魔界に存在する下級階層の亡霊のような魔物を思い浮かべる。
だが、魔獣は常識を超えた力で鎖を引きちぎらんと暴れ続けている。
「いや……こいつ、様子がおかしいね」
リウ、と呼ばれた青年はさらに注意深く観察し、何かに気づいたように瞳を細める。
魔獣から漂う瘴気と、異様な魔力の流れ――それは単なる魔界の魔物では説明できない。
「……これ、フェルヴィスだ」
「フェルヴィス?」
エズレンが思わず声を漏らす。
リウはエズレンを一瞥し、魔獣を注視しながらも冷静に説明を始めた。
「フェルヴィスは獣の特性を持つ種族で、俊敏さと鋭敏な五感を誇る存在だよ。彼らは自由奔放で、本能に従って生きる。特に風や火、そして雷の精霊に引き寄せられやすいんだけど――」
その言葉と共に、エズレンに2つの視線が向く。
「...なるほどな」
イグの冷たい声と視線に、エズレンの心臓が跳ねる。
(……雷の精霊?)
自身の周囲を漂う、精霊達の足跡――先程まで戯れていた精霊たちの残滓が、宙に残っているのに気がついた。
「君の周囲にある精霊達の足跡に、あいつが反応したみたいだね」
リウが続ける声は、確信に満ちていた。
「……僕のせい、ですか?」
エズレンは動揺し、唇を噛む。
「いや、責任を感じる必要はないよ。精霊は自由な存在だからね。けど、堕ちた精霊に取り憑かれた者は別だ。放っておけば厄介な事になる」
(...堕ちた精霊?何の事だ...?)
エズレンの思考を断ち切るように、リウが不意にこちらを振り向いた。
彼の視線は、エズレンの周囲に漂う精霊達の足跡とは別の、魔力の残滓を捉えていた。
「……ねえ、君。もしかして雷の魔術が使えるの?」
僅かに期待を孕んだ声色で、優しく問いかける。
しかし問われたエズレンは、小さく首を振る。
「...あ、いやでも、戦いには……未熟で」
未だ力の制御には自信がない――エズレンは言葉に詰まりながらも正直に答えた。
リウは残念そうに微笑む。
「そう……ちょっと残念」
「戦う気が無ぇなら黙って見てろ」
冷たく言い放つイグ。しかしその声色の冷たさとは裏腹に、彼は好戦的な笑みを浮かべていた。
「...イグ、また悪い癖が出てるよ」
「あ?知らねぇよ、こいつは俺の獲物だ」
イグは黒鎖を操りつつも、焦りを隠せない。拘束を強化し続けているが、魔獣はなお抵抗を止めなかった。
リウはその焦りを看破したように問いかける。
「イグ、どうするつもり?」
「……まぁ、相性はあんま良くねぇな」
低く呟く声に、苛立ちが滲む。
黒衣がひるがえり、彼を中心に闇が渦を巻く。
イグの指先に凝縮された漆黒の魔力が、一層濃くなり――闇と血の色が混じり合う槍が顕現し、フェルヴィスの胸を貫く。
「――消えろ、“闇血の槍”」
冷酷な一言とともに、フェルヴィスは断末魔を上げ、闇に呑まれて崩れ落ちた。
その瞬間、戦場に満ちていた瘴気が霧散する。
イグは魔力を収め、忌々しげに息を吐いた。
「……まぁ、準備運動くらいにはなったな」
「またそんな格好つけちゃって。ちょっと本気出したでしょ?」
張り詰めていた緊張の糸が解ける。
戦いの終わりを感じたその刹那――再び、小さな雷光が舞い始めた。
逃げ去ったはずのフルグリスたちが、エズレンのもとへと再び集まり、懐くように彼の周りを巡り始める。
その様子を見たイグとリウは目を見開き、改めてエズレンに目を向ける。
「……やっぱり、君は普通じゃないみたいだね」
興味を隠さぬ様子で、リウが言葉を継ぐ。
イグも無言でエズレンを値踏みするように見つめる。
(――この少年、何者だ?)
三人の視線が絡み合い、またもや静かな緊張が場を支配した。