第6話 星爆ぜる丘
家の扉を開けた瞬間、冷たい朝の風が吹き抜けた。春の気配を孕んだ風は、山々の清浄な空気と共に旅立ちの予感を運んでくる。
――今日、ここを離れる。
エズレンは肩に掛けた鞄の紐をぎゅっと握りしめ、背後を振り返った。
書棚に囲まれた部屋の奥、いつもと変わらない静謐な空間に、一人の老人が座して書物を読んでいる。
『無偏の賢者』ゼス――エズレンの育ての親であり、彼にとって唯一の家族とも呼べる存在だ。
「忘れ物はないか?」
ゼスの声はいつも通り穏やかだった。けれど、長年エズレンを見守ってきたその瞳には、微かな寂しさが揺れている。
「うん、大丈夫」
エズレンは決意を込めて頷く。
これまで僕を育て、導き、守ってくれたゼス――だが、いつまでもここに留まっているわけにはいかない。雷神アストラグスについて、そして自分自身を知るためにも。
「神々の記録を辿るなら、ここより南西にある街の教会が最も適しているだろう。...お前なら、必ず答えに辿り着くはずだ」
「うん、ありがとう」
「……道中は慎重に、常に冷静でいるように。お前は、まだ完全に力と感情を制御できるわけじゃない」
「...うん、わかってる」
ゼスはエズレンの表情を見て一度だけ頷くと、静かに立ち上がり、外套の内側から何かを取り出した。
「それと、これを持って行きなさい」
差し出されたのは、一片の黒鉄の指輪だった。
質素で重厚なそれには、ゼスがいつも身に着けているローブに織られたものと同じ紋様が彫り込まれている。
エズレンは目を見開く。
「これは...」
ゼスは言葉を続ける。
「私と縁ある者を示すものだ。困った事があれば教会の者に見せるといい。誰かしら手を貸してくれるだろう」
エズレンはそっと指輪を受け取る。ずしりとした重みが、ゼスの思いを伝えてくるようだった。
「ゼス……」
言葉に詰まるエズレンの肩に、彼は優しく手を置いた。
「お前がどこへ行こうと、私はここにいる。帰ってくる場所があると忘れるな」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
「僕は……必ずゼスのもとに帰ってきます。次に会うその時は、本当の僕として」
その誓いに、ゼスは満足そうに微笑んだ。
「いい旅を、エズレン」
「うん、行ってきます」
空を見上げると、昨夜の雨を受けて一層澄み渡り、淡い光が雲間からこぼれている。
エズレンは深く息を吸い込み、森へと続く小道へ足を踏み出した。
背後に広がる静寂が、いつか戻る場所を示しているように感じながら――
◆
雨に濡れた葉がきらめき、足元で草がわずかに鳴る。鳥の囀りすら遠く、森はひっそりとした静けさに包まれていた。
エズレンは手を胸元に当て、銀のペンダントの感触を確かめる。
(リサは、無事だっただろうか……)
ふと脳裏に浮かんだ幼い少女の笑顔が、足を止めさせた。
あの日、魔法が成功したという感覚はあった。けれど、リサを置いたまま、逃げるように村から去ってしまった。そのことが心に引っかかっていた。
(一目だけでも、彼女の無事を確認出来れば...)
しかし村に向かう勇気は、まだない。村人たちからの批難の声と嫌悪の視線が、頭から離れないでいた。
(そうだ、あの丘なら...)
少年はまた、静かに歩み始めた――
◆
丘に辿り着くと、数人の村人たちが静かに土を均していた。かつて、雷が暴走して荒れ果てたその地は、今や村人たちの手で丁寧に整地され、少しずつ新しい命を迎えようとしている。
その中央で、幼い少女が懸命に手を動かしていた。
「よいしょ、よいしょ……もうちょっと!」
――リサだ。
(僕が壊した場所を、彼女は癒そうとしているんだ……)
エズレンは思わず息を呑み、草陰から静かに見守った。
リサは、村の祝祭の日に初めて手渡された星爆果の苗木を、そっと土に植えながら、村人たちに明るく話しかける。
「これね、エズレンに気づいてもらうためなんだよ! だって、あの日私が落ちちゃったから……今は違うんだって、目印にするの!」
その無邪気な声に、エズレンは胸が温かい気持ちに満たされた。自分が壊した場所を、彼女は受け入れて、新たな命を育てようとしている。
あの優しい少女へ恩返しをしたい。せめて、僕に何かできることは――そう思った時、銀のペンダントが胸元で揺れる。
『この形見はお前を導くだろう。迷った時は、手に取って思い出せ――彼女がそうしたように』
ゼスの言葉が脳裏に響いた。
村人たちが去った後、エズレンはそっと丘へと歩み寄る。
風が吹き、苗木の葉を優しく揺らした。
「……僕を受け入れてくれて、ありがとう」
そう呟きながら指先に意識を集中する。雷の激しい力ではなく、穏やかな癒しの力を――
パチッ――静かな音と共に、金色の稲光が苗木に降り注ぎ、柔らかな光となって土壌を満たしていく。
かつて壊したこの地で、今は新しい生命を育む手助けができる。
それが、彼にできる唯一の恩返しであった。
◆
村へと戻る途中、リサはふと足を止めた。
「……エズレン?」
夕暮れの丘から、あの日と同じ温かな光を感じた気がして、思わず振り返る。
けれど、そこには誰もいない。ただ、風にそよぐ若木の葉が淡く光を反射していた。
翌朝、リサは再び丘を訪れた。星爆果の苗木は、昨日よりもずっと大きくなり、艶やかな葉をつけている。
その奇跡を見つめ、少女はふっと微笑んだ。
「いつか、また会えるよね?」
風が優しく吹き抜ける。彼女は小さな手で葉をそっと撫で、心に一つの約束を刻む。
エズレンはいつか戻ってくる。そう確信して――その時には、ここでまた星爆果を分け合いと願った。