第40話 剣を帯びた街へ
夕陽が海の縁を赤く染める頃、エズレンたちを乗せた船はグラディス公国の港へと滑り込んだ。
イストリア領の港町は夜でも賑わい、人の往来が絶えなかったが、こちらはどこか空気が違う。
潮の匂いは同じはずなのに、鼻をかすめていくのは鉄と錆、そして油の気配。
桟橋に降り立った瞬間から、この港が別の土地であることを思い知らされる。
橋を渡りきると、警備兵による入国審査を待つ人々の列が目に入った。
到着した時間が遅かったからか、周囲にいるのはエズレンたちと同じ船に乗っていた乗客ばかりで、前に並んでいるのも三組ほどだった。
「そういえば入国審査を受けるのは初めてなんだけど、何をするんだろう」
ふと零れたエズレンの一言に、即座に反応したのはアウレクだった。
「は!? エズレン、もしかして身分証になるようなモン持ってねぇのか!?」
「え、例えばどんな物があればいいんだ?」
返答を聞いた途端、アウレクは焦ったように手を振る。
「長期の旅をするなら、日銭稼ぎに冒険者組合へ登録してんじゃねえのか!?」
「いや、無い……」
「ねえのかよ! ま、まさか俺たちここまで来て、国に入れねぇのか――」
声が裏返り、周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
アウレクは天を仰ぐように膝から崩れ落ちた。
困惑したエズレンは、イグナシウスとリウィアンにそれぞれ問いかける。
「二人は身分証を持っているのか?」
「トーゼン」
「一応ね」
二人は同時に、白銀色のカードを差し出した。
「“冒険者組合”……本当だ。二人の名前が書いてある」
冒険者組合が発行する登録者カードは、等級、氏名、発行場所が記されているだけの簡素なもの。
「プ、プラチナ……!?」
背後では、ようやく立ち直ったアウレクが、二人のカードを見て硬直していた。
その様子を横目に、イグナシウスが淡々と告げる。
「要は身元保証人がいりゃいける。お前だって色々持ってるだろ」
「色々? あ…」
思い出すように手荷物を探り、ゼスの指輪、エラリスのペンダント、イストリア辺境伯の身元保証状を取り出す。
「…これで足りるだろうか」
「!?」
「どれでも通るとは思うけど、“何故キミのような少年が?”って逆に疑われそうだね」
「価値に気づく奴がいりゃな」
アウレクは呆然としたまま、「もうちょっと怖いよこの子……」と呟き、頭を抱えた。
ほどなくして、審査の順番が回ってきた。
「身分証、氏名、入国目的を」
端的な声で告げる警備兵。
最初に、疲労感を滲ませたアウレクが一歩前へ出た。
「航海士のアウレクだ! 次の目的地へ向かう前に、物資補充で立ち寄った!」
提示されたのは“大陸航路管理連盟”発行の資格証だった。
┊︎資格:第三等正航海士
┊︎氏名:Aurek
┊︎発行場所:アルヴェナ大陸西南支部
「…良かろう。次の者、前へ」
続いて、イグナシウスとリウィアンが並んで進み出る。
「イグナシウス。この国は通過するだけだ」
「リウィアンだよ。右に同じく。はい、これ」
┊︎等級:PLATINUM
┊︎氏名:Ignatius
┊︎発行場所:ノクテリス大陸北東支部
┊︎等級:PLATINUM
┊︎氏名:Luvian
┊︎発行場所:ヴァルハディア大陸本部
警備兵は二枚のカードを見比べ、次第に顔色を変えていく。
「……!? ノクテリス大陸に……ヴァ、ヴァルハディア本部!? ど、どうぞ、お通り下さい!!」
「ウィーッス」
「うん、ご苦労さま」
明らかに態度の変わった警備兵を不思議に思いながら、エズレンは前に立った。
「エズレンといいます。自分の身分証はありませんが、この中のどれかが代わりになるでしょうか。あの三人と共に、アルヴェーアの中央神殿へ向かっています」
「あ、あぁ……失礼。確認させてい……」
言葉が途中で不自然に途切れる。
エズレンが困惑して振り返ると、アウレクが警備兵の肩にそっと手を置き、「まぁ、気持ちは分かるぜ」と妙な共感を示していた。
我に返った警備兵は、本日一番整った姿勢で敬礼を取り、声高に通行許可を告げる。
「た、大変失礼致しました!! 我が国でどうぞ、ごゆっくりお過ごし下さいませ!!」
四人の姿が見えなくなるまで敬礼を続ける警備兵。
「……何か、凄く怯えてなかったか?」
「彼は優秀な門番だったようだねぇ」
そうして歩き去る彼らが知ることはない。
その背中を見送った警備兵が、安堵の息と共に呟いた言葉を。
「無偏の賢者に、癒しの神の大聖女、イストリア辺境伯の縁者とは……。プラチナ帯の冒険者二名と行動しているなら問題はないだろうが……一応、上には報告しておくか」
◆
入国を許可された四人は、港の喧騒を背にして街の奥へと歩き出した。
日はすでに傾ききっており、まずは宿を探す必要があった。
港町から中心街へ向かうにつれ、通りの様子は少しずつ変わっていく。
酒場や倉庫が並んでいた一角を抜けると、石畳は整えられ、建物の造りも統一されていた。
だが、目に入るものは変わらない。
武具屋、鍛冶場、装備の修理を請け負う店。
そして、それらを当たり前のように利用する人々。
エズレンは歩きながら、行き交う者たちの背中に目を留めていた。
剣を帯び、槍を担ぎ、あるいは鎧の留め具を確かめながら進む姿。
誇示するような気配はない。
かといって、怯えている様子もない。
ただ、それが“日常”であるかのように、静かにそこにあった。
(……ここでは、戦いというものが、特別じゃないのか)
そう感じた理由を、エズレンはまだ言葉にできなかった。
けれど、胸の奥に小さな引っかかりだけが残る。
「エズレンからすれば、ずいぶん物々しい街かな?」
不意に、リウィアンが口を開いた。
周囲を見渡すその視線は、どこか確かめるようでもある。
「この国は、昔から何度も戦争に巻き込まれてきたんだ。資源が少なく、奪う価値のない土地ほど、争いの通り道になる」
エズレンは黙って耳を傾ける。
「彼らは理解したんだ。黙するだけでは、擦り潰されていくだけだって。だから——」
リウィアンは一拍置いて続けた。
「守るために戦う道を選んだ。戦力を育て、友好国に提供する。自国が戦争に飲み込まれないための、距離の取り方だよ」
通りの向こうで、鎧を脱いで手入れをする傭兵の姿が見えた。
その動きは手慣れていて、どこか無駄がない。
「皮肉だけどね。この国はここにある大切なものを守るため、他を犠牲にする戦い方を極めたんだ」
その言葉に、エズレンは足元の石畳へ視線を落とした。
ゼスと二人で暮らしていた日々には、無かった感覚。
力について学んだが、それは誰かに向けるためではなく、己を律するため。
それでも、この街に立っていると——
降りかかる火の粉を払うだけでは、守れないものがあるのではないか。
そんな漠然とした感覚だけが、胸に残る。
「いいじゃねぇか」
イグナシウスが、どこか楽しげに笑う。
「争いを嫌う国が、戦い方を極めたって? 矛盾してるが、悪くねぇ。覚悟決めた連中とやり合うのは嫌いじゃねぇよ」
その言葉に、隣を歩いていたアウレクがぴくりと肩を震わせた。
「……俺は、あんまり好きじゃねぇかな」
低く、はっきりとした声だった。
「そこにどんな理由があったとしても、人が人を害するために、技術や道具を磨くのに、慣れていくのは……」
言葉を探すように、アウレクは一度口を閉じる。
「俺は、そんな守り方しない」
短くそう言って、前を向いた。
誰もすぐには返さなかった。
街の音だけが、四人の間を流れていく。
それぞれが、同じ景色を見ながら、違うものを感じ取っていた。
そしてその違いは、まだ名前を持たないまま、静かに胸の奥へ沈んでいった。
◆
太陽が完全に沈みきった頃、宿屋の一室にて。
「うーん…」
エズレンは机の前で、ひとり頭を悩ませていた。
「さっきから何唸ってんだ?」
背後から声をかけたのは、ベッドの上で荷物を整理しているアウレクだった。
彼は一度すべての持ち物を鞄から出し、視界に入るよう広げてから整理するタイプらしい。
ベッドの上には、羅針盤やコンパス、折り畳まれた航海図、保存食などが所狭しと並んでいる。
ちなみに今回の宿では、二人部屋を二部屋確保することができた。
部屋割りを決める際、イグナシウスが「アウレク以外なら誰でもいい」と言い放ったため、当人は「除け者扱いかよ!」と、ひどく不満げだったのだが——
持ち前の切り替えの早さのおかげか、今ではすっかり立ち直り、エズレンとの同室を楽しんでいる様子だった。
「いや、ゼス……家族に、手紙を出そうと思って」
「おっ、いいじゃねぇか。で、何をそんなに悩んでんだ?」
「国を跨いで届けるとなると、時間も費用もかかるみたいで。それに、届かなかった場合は、差出人の郵便組合に返送されるらしいんだ」
エズレンは、机に置いたままの便箋へと視線を落とす。
「この国は通過するだけだし、もし戻ってきたらと思うとさ…」
「あー、なるほどな」
アウレクは少し考えるように唸ってから、軽く肩をすくめた。
「ならさ、エズレンが直接送ればいいんじゃねぇ?そういう魔術、あるだろ」
「僕が、直接?」
その言葉に、エズレンの脳裏へひとつの記憶がよみがえった。
イストリア辺境伯領で、精霊災害の調査に同行した際。
現地の隊員たちが使用していた、風魔術“飛信”。
だが、すぐに首を横に振る。
「でもダメだ。あの魔術に使う風晶石を、僕は持ってない」
「じゃあ明日、リウィアンとイグナシウスに聞いてみりゃいい。あいつら、別に気にしねぇだろ」
「…そうだな。聞いてみる」
◆
翌朝。
エズレンは、斜向かいにあるリウィアンとイグナシウスの部屋を訪ねていた。
「風晶石か〜。今は持ってないや」
「俺も。素材あんま持ち歩かねぇんだわ」
二人の返答に、エズレンは戸口で小さく唸る。
そんな様子を見て、リウィアンが首を傾げた。
「エズレンが素材のことで頼ってくるなんて珍しいね。何に使うの?」
「家族に手紙を送るのに、風魔術が使えないかと思って」
「ああ、なるほど」
リウィアンはすぐに理解したように頷く。
「でも、この辺りじゃ飛信に使えるサイズの風晶石は採れないかな。後で物資補給ついでに、魔石商を探してみる?」
「…!ああ、そうする」
エズレンは、ようやく少しだけ表情を緩めた。
――魔石商。
言葉の響きに、胸の奥がほんの少し騒ぐ。
見たこともない魔石、聞いたこともない道具、知らない仕組みが、並んでいるのだろうか。
(どんな場所なんだろう)
考えただけで、足取りがわずかに軽くなる。
エズレンはそのことに、まだ気づいていなかった。




