第38話 波間にほどける秘密
波の音だけが、ようやく元の呼吸を取り戻していた。
つい先ほどまで海を覆っていた怒気は消え失せ、
ただ湿った風だけが四人の間を静かに抜けていく。
アウレクは詠歌を終えた姿勢のまま動かない。
遠い沖を見つめる瞳には、まだ名残の揺らぎがあった。
海は静まったのに、胸の奥だけがざわめき続けている――まるでそんなふうに見えた。
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「……おい、リウ。さっき何か知ってる顔してたな」
荒れた海が静けさを取り戻す中、イグナシウスがぽつりと言った。
隣のリウィアンにしか届かない声量。
どこか慎重で、ほんの少しだけ不器用な気遣いが滲む。
リウィアンは服についた水滴を払いつつ、小さく首を振った。
「うーん……知っているってほどじゃないんだけどね。あの石と彼の姿……どこかで見た記憶が、あるような気がして」
「どこか?」
イグナシウスは僅かに目を細める。
「お前、アクシェラと会ったことあるのか」
「ううん」
声は穏やかだが、そこにだけ影が差す。
「最近のことじゃないんだ。ずいぶん昔の記憶でさ……思い出そうとすると、頭に霧がかかるみたいなんだ」
イグナシウスはその様子を見て、かすかに息を吐いた。
溜息というより、何かを飲み込むような響き。
「……またか。厄介だな、それ」
「そうなんだよね。でも――」
リウィアンは海を見つめるアウレクの横顔へ視線を寄せ、その目に淡い憐れみを宿した。
「彼、きっと隠したかっただろうにね」
「……まあ、そうだろうな」
イグナシウスは腕を組んだまま、アウレクの背へとゆっくり視線を移す。
その目は、誰よりも静かに状況を見ていた。
「隠したい奴から無理に聞き出すつもりはねぇけど……あそこまでやって黙ってるのは、逆にしんどいだろ」
言葉も視線もアウレクに向けられている。
ただその声音の奥に――ほんの僅かだが、誰か“もう一人”への気遣いが揺らいだ。
リウィアンのまつげが、かすかに震える。
ふ、と表情をゆるませたのは、その微かな揺らぎを拾ったからだ。
「イグって、ほんと優しいよね」
「は? なんだよ急に」
「だって、あれだけ嫌がっておきながらアウレクのこと、ちゃんと気にしてるから」
「はぁっ?! うざ!」
ぶっきらぼうな返し。
だが、その声にはいつもより少し柔らかな熱があった。
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エズレンはしばらく、手の中の静蒼石を見つめていた。
光を失った蒼は、海の底で眠る影のようだ。
(……どうして、海はあんなふうに)
石を外すと同時にざわめいた海。
偶然ではない。けれど理由までは辿れない。
自分がまだ知らないことが多すぎる。
“自分自身”のことさえ。
『まず事実を拾い上げよ。感情はそのあとだ』
ゼスの声が記憶の底から浮かぶ。
けれど今は、その助言にすがることさえ心もとない。
エズレンはゆっくり顔を上げた。
少し離れた場所で、アウレクが海を見ている。
肩がほんの少しだけ強張って、何かを堪えているようにも、突き放そうとしているようにも見えた。
(……怒っているのか、苦しんでいるのか、それとも)
距離は変わらないはずなのに、いつもよりずっと遠い。
石を外したのは自分だ。
それだけは確かだった。
胸の奥に、説明できないざらつきが広がる。
痛みなのか、不安なのか、それすら曖昧だ。
話したほうがいい――
そう思うのに、どこから声を出せばいいのか分からない。
言葉を探せば探すほど、指先の温度が冷えていく。
海は静かになったのに、自分の中だけ、波がまだ止まらなかった。
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アウレクは、揺れていた。
海でも船でもない。胸の奥底――
ずっと見ないふりをしていた場所が、軋んでいた。
(完全に気づかれたよなー、これ)
エズレンの指先が静蒼石を握ったまま動かないのを、横目で見ていた。
責める気なんてない。
ただ――「ああ、やっぱりか」と思っただけだ。
怒ってもいない。
怖がってもいない。
むしろ、自分が一番よく知っている。
“隠す側”の息苦しさを。
(いつかバレるって、分かってたけど)
誤算だったのは、エズレンの気質が“潮が荒れるほど強烈”だったこと。
潮導の民が、海の騒乱の中心にいたら、務めを果たさざるを得ない。
あんな姿を見られた以上、悟られて当然だ。
真実を隠すことは、嘘をつくこととは違う。
それでも喉の奥に刺さる棘があった。
(エズレン、謝る気だろうな)
静蒼石を握る指の震えも、視線の揺れも――
自分のせいにしている証拠だ。
胸の奥が、じくりと熱くなる。
(……違ぇだろ。謝るのは俺のほうだ)
本当は、最初に出会ったときから分かっていた。
この三人は普通じゃない。
けれど――危害を加える連中じゃないことも、海が教えてくれていた。
『潮流は常に、真実へ導く』
故郷で叩き込まれた言葉。
エズレンが怯える理由が“自分のせい”になっているのが、どうにも耐えられない。
誤魔化すのも、曖昧にするのも良くない。
(ちゃんと、言わないと)
言うと決めた瞬間、呼吸が不思議と軽くなった。
まるで海底に沈んでいた石が、ようやく流れていったような感覚。
アウレクは縦笛に手を添え、胸の奥に溜めていた波が一つ、静かに引いていくのを感じた。
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潮の香りだけが濃く残る中、アウレクは縦笛を腰に戻し、深い息を吐いた。
暴れ狂った海を鎮めた直後とは思えないほど、
その顔には、どこか晴れたような気配がある。
「――まあ、こんな感じでさ」
照れくさそうに笑い、胸を指で叩く。
「俺、潮導の民なんだわ! 皆、隠してて悪かったな」
声は明るいのに、海の底のように深い。
その奥に、長く抱えてきた気配が静かに沈んでいる。
エズレンは言葉を見つけられず、ただ彼を見つめた。
アウレクは海面へ視線を落とし、ぽつりと漏らす。
「にしても、エズレン。まさかアンタが雷の気質だったとはなー……」
「……どう、して」
喉の奥に言葉を詰まらせながらも、エズレンは問いを返した。
「んー、説明ムズいんだけどさ。海の精霊が嫌がるやつの気配、かな?」
アウレクは海風を掬うように指先を動かしながら続ける。
「雷の気は“破壊”。海の気は“沈静”。この二つ、相性最悪なんだよ。宿で話してる時から嫌な予感しててさ、だから静蒼石渡したんだけど……外した瞬間、海が一気に反発したんだ。よっぽどエズレンの気質が強いんだろうな」
エズレンの胸に、ざわりと何かが走る。
「じゃあ……港町に着いた日に海が荒れたのも、僕の――」
「まあ、十中八九なー」
アウレクは笑いながらも、その声は驚くほど優しい。
「完全に無自覚だろ? 海自体初めてだって話だし、今まで気づくタイミングが無かったんだよな。悪気があったわけじゃねぇし、生まれ持ったもんを責める気はねぇさ。
……ま、俺の種族はバレちまったんだけどー」
“生まれ持ったもの”。
その言葉は、エズレンの深層を強く揺らす。
無自覚とはいえ、他の存在を侵害するほどの力。
そして、それによって他者の秘密を暴いてしまった責任。
「…アウレク、僕のせいで、君の……」
続きの出ない沈黙が落ちかけた、その時――
「――つかさ!」
ぱん、とアウレクが手を叩いた。
「これフェアじゃなくね?! 俺ばっか正体バレて、アンタら三人はどうなんだっつーの!!気になって夜しか眠れねぇわ!」
瞬間、先ほどまでの重い空気が霧散する。
「それ普通に寝てるじゃない」
リウィアンが困ったように笑い、
「一般人デース」
イグナシウスはさらりと流す。
「アンタらは絶ッ対違う!!」
アウレクが即ツッコミ。
「……僕は」
エズレンが静かに口を開く。
「自分が何者かを、探している途中なんだ」
「いや真顔?! おまっ、反則だろ……!」
アウレクが手を叩き笑い出す。
リウィアンは肩をすくめ、目元で微笑んだ。
「…まあ、旅の目的はいろいろあるってことで、ね?」
「絶ッッ対なんかあるよな!?全員怪しいのに悪いやついないの、逆に怖えんだけど!!」
アウレクの嘆きに、船の上の空気は一気にやわらぐ。
潮風は軽く、三人の表情にも自然な光が差し込んだ。
やがてアウレクは、諦めたように笑う。
「……まあいいや。アンタら、全員ワケありなのは分かったし。変な奴らだけど、言った通り悪いやつじゃねぇ事は確かだしな」
三人は目を合わせ、小さく息をついた。
遠く、雲間から光が差し込む。
翠風海はまだ深く青いままだが――
その上に立つ四人の間には、確かな友情が芽生えていた。




