第3話 触れる予感
村は澄んだ空気に包まれ、活気に満ちていた。
広場には色とりどりの布が張られ、風に揺れるたびに陽の光を受けてきらめく。小麦と草花で編まれた飾りが通りを彩り、焼き菓子の甘い香りと焚き火で炙られた肉の香ばしさが辺りに漂っている。
家々の前には、冬を越えて新たな命の息吹を祝う品々が並び、村人たちは手を叩きながら歌を口ずさんでいた。子供たちは花輪を投げ合い、大人たちは酒を片手に笑い合う。
エズレンはそんな喧騒の中に立ちながらも、そこに溶け込めない自分をはっきりと感じていた。
人々が交わす何気ない言葉や笑い声。その一つひとつが、どこか遠くの出来事に思える――まるで、自分だけが違う場所に立っているかのように。
ーーー
いつかのゼスの言葉を思い出す。
『ーーお前はもう、本の知識ではなく、世界に触れるべき時が来たのだよ』
これまでエズレンは、ゼスのもとで数多くの叡智に触れてきた。けれど、その知識はあくまで理論でしかなく、現実に生きる人々との関わりを持つことはほとんどなかった。
それこそが、ゼスがこの村に送り出した理由であった。そしてエズレンもそれを正しく理解している。
ゼスの期待に応えたいと思う。だが、人々とどう関わればいいのかが分からない。
――いや、分からないのではなく、踏み出す勇気が足りないのかもしれない。
「……僕はどうすればいい?」
誰にも届かぬ問いが、ふっと唇から漏れる。
ーーー
祭りの喧騒の中で、無数の視線が彼にまとわりつく。
それはゼスの穏やかな眼差しとはまるで違う――遠巻きに値踏みするような、あるいは好奇と警戒が入り混じった、理解しがたいもの。
エズレンは知らず拳を握った。これほど多くの感情が、自分に向けられるのは初めてだった。
(これが……他者からの視線...)
「ねぇ、あの人ってもしかして...」
「ゼス様の、お弟子さん……?」
「ああ、……なんだか近寄り難いよな」
村人たちがひそひそと囁く声が、耳に届く。
畏れ、興味、警戒ーー混じり合った感情が透けて見えるようだった。
(……彼らには、僕がどう見えているんだろう)
人々からの視線を淡々と受け流そうとしながらも、ふとそんな疑問が心を掠める。
ーー今のエズレンには、まだ見つけられない答えだった。
◆
「ねえ、あなた!賢者様のお弟子さん?」
不意に声をかけられ、エズレンの肩が小さく跳ねる。誰かに話しかけられるなど、予想もしていなかったからだ。
振り向くと、そこには栗色の髪を二つ結びにした少女が立っていた。彼女は他の村人たちと違い、僕を怖がる様子もなく、まだあどけなさが残る瞳でまっすぐに僕を見つめていた。
「…どうして、そう思った?」
問い返すと、少女はくすっと笑った。
「だって、村じゃ有名なんだよ!賢者様のお弟子さんはすっごく強くて、頭が良くて……それに、ちょっと変わってるって!」
「……変わってる?」
これまでゼス以外の人と関わったことはないのに、どうしてそのような噂が流れているのだろうか。
エズレンが不思議そうに呟くと、少女は首を傾げた。
「でもさ、私はそんなふうに見えないんだよね」
彼女の無邪気な言葉に、エズレンは思わず目を見開く。他の誰とも違う反応だった。
「……君は、僕が怖くないのか?」
「うん!」
少女は即答した。その笑顔には、何の疑いも恐れもなかった。
「だって、あなたは誰かを傷つける人じゃないと思う!」
その言葉が、胸の奥で小さく波紋を広げる。
エズレンは一瞬、言葉を失った。
(どうして、そんなふうに言えるんだ……?)
つい今しがた出会ったばかりの自分に、彼女は迷いなく断言する。
少女から向けられ続けるまっすぐな視線に、ひどく心を揺らされた。
「……名前を聞いてもいい?」
「私?リサだよ! あなたのお名前は?」
明るく名乗った彼女は、興味津々といった様子でエズレンを見つめる。村人たちが遠巻きに見ている中で、こんなふうに話しかけてくるのは彼女だけだった。
「...僕は、エズレン」
「エズレン! よろしくね!」
「うん、よろしく。...リサ」
エズレンはその名を反芻し、頭の中の知識と結びつける。今まで他人と話す機会はほとんどなかったが、彼女の好奇心を跳ね返すのは良くない気がして、口を開いた。
「リサ...自由な風、という意味がある、はずだ」
「えっ、そうなの?」
リサは目を丸くしたあと、ぱっと笑顔を咲かせる。
「すごいね! そんな意味があるなんて!じゃあ私、風みたいに自由ってこと?」
彼女の無邪気な問いかけに、エズレンは少し考え込んでから頷いた。
「……確かに、そんなふうに見えるよ。君は誰の目も気にせず、自分の気持ちのままに動くような。」
「うん、そうかも!」
リサは自信たっぷりに胸を張った。
「せっかくのお祭りなんだもん、楽しまなきゃでしょ? それに、みんな遠くから見てるだけで、なんかもったいないって思ったの」
「もったいない?」
エズレンは彼女の言葉を理解できず、僅かに首を傾げる。
「だって、エズレンがいるのに、誰も話しかけないんだもん。どんな人か気になるなら、直接話すのがイチバン! でしょ?」
それは、驚くほど単純でーーけれど、エズレンにとって新鮮な考えだった。
「……そういうものか」
「そういうものだよ!」
何でもないことのように言い切る彼女を見て、エズレンは不思議な気持ちになった。リサは他の誰よりも近くにいて、それでも彼を特別視しない。
「ねえ、このお祭り初めてなんでしょ? 私のおすすめの場所、案内してあげる!」
リサは手を差し出し、エズレンを促すように笑う。
「…案内?」
「そう! この村で一番きれいな場所、教えてあげるね」
迷いのないその言葉に、エズレンは少しだけ戸惑う。けれど、彼女の手を拒む理由も見つけられなかった。
「わかった、お願いしよう」
そう答えた瞬間、リサは嬉しそうに笑い、風に揺れる花のように駆け出した。
◆
「ねえ、この村に来るのは初めて?」
「どうして分かる?」
「だって、きょろきょろしてるし、みんなとは雰囲気が違うんだもん。……それに、なんだかこう...神秘的?だしね」
「神秘的...?」
「うん、ほら、空気が違うっていうか。村の人とはちょっと違う感じがするの」
彼女の言葉に、エズレンはわずかに眉をひそめた。
それは今まで言われたことのない感想だったからだ。
「……それが変、ってこと?」
「ちがうちがう!」
リサは慌てて手を振る。
「むしろ、なんかうまく言えないけど……エズレンのまわりだけ、ちょっと違うの!...ここにいるのが不思議じゃないっていうか?」
エズレンは困惑していた。幼いリサの言葉をどう解釈すればいいのか、どう応えればいいのか分からない。
言葉をうまく継げないでいると、リサは伺うようにこちらを見た。
「ごめんなさい。もしかしてイヤな気持ちにさせちゃった?」
リサの不安そうな表情を見て、エズレンはふっと笑みをこぼしながら応えた。
「そんなことはないよ、初めて言われたから少し驚いただけ」
そっか!とすぐに笑顔を取り戻した彼女の瞳には先程の不安の色は見えない。特に気にしている様子もなく、屈託なく笑いエズレンの手を取る。
「じゃあ行こう!」
(ここにいるのが、不思議じゃない...)
彼女の無邪気な言葉が、エズレンの胸に静かに響いていた。