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雷の子は、空を識る  作者: かつお武士
第1章 旅立ち
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第37話 蒼潮の詠歌

――船上にて。


翠風海を渡る船は、やわらかな潮に抱かれるように進んでいた。

陽光は青を透かし、甲板には心地よい風が吹き抜ける。

縄の軋む音、船員たちの笑い声、遠くの海鳥の声。

昨日の嵐など、まるで幻だったかのようだ。


エズレンは甲板の縁に凭れ、揺れの余韻がまだ芯に残る身体を静かに預けていた。

イグナシウスとリウィアンは船室に戻り、それぞれ休息を取っている。


そのとき、乗客たちの声が風に乗って届く。


「聞いたか? アクシェラの祟りってやつ」

「またかよ。そんなもん信じるかっての」

「でも昨日の嵐、妙だったろ。昼まで快晴だったのに……」


アクシェラ――港町で聞いた噂。

海に生きる民で、潮を操るという。

真偽は分からないが、アウレクがその名を聞いたとき、ほんの少しだけ表情を曇らせたのを思い出す。


(後で聞けば、教えてくれるだろうか)


潮風が、酔いの残滓と共に思考をさらっていく。


---


太陽が天を越えた頃、海はさらに穏やかさを増し、船は速度を取り戻していた。

体調が落ち着いたエズレンは、皆のもとへ行こうと腰を上げる。


その瞬間――


「その石、きれいだね! 見せて!」


振り返ると、商人の一団に連れられた子どもが、好奇心の塊のような目で立っていた。

エズレンは少しためらい、静かに腰の紐飾りを外す。


「これは人から預かっているものだ。だから、丁寧に……」


そう言いながら、静蒼石をそっと外した。


――その刹那。


ごう、と。


船底を突き破るような衝撃。

海鳴りが腹の底まで震わせ、甲板が大きく跳ね上がる。

水面が裏返るようにうねり、冷たい飛沫が吹き荒れた。

風が悲鳴を上げ、帆が引き裂かれそうに軋む。

世界の色が、ぐらりと傾いた。


「掴まれっ!」


誰かの怒鳴り声。

巨大な獣の心臓のような海の鼓動が周囲を支配する。

静まり返っていた海は、いまや狂気の渦と化していた。


「二人とも、大丈夫!?」

リウィアンが駆け寄り、エズレンと子どもを抱き寄せて庇う。


舵の方ではイグナシウスの声が混ざり、状況を叫んでいる。


その騒乱の只中で、ただ一人――アウレクだけが動かない。

甲板を揺らす轟音のすべてが、彼の周囲だけ遠い。

嵐の中心にぽっかりと空いた“静”が、そこにあった。

その中心で、風の声に耳を澄ませるように、じっとエズレンを見ていた。


「……そういうことか」


低く、風に溶ける声。


アウレクは外套の留め具に手をかけた。

暴風が布を叩きつけても、その手は揺らがない。

ぱん、と金具が外れ、外套が風にさらわれた。


稲光が甲板を裂き、彼の全貌を映し出す。


天色と深海を溶かしたような髪が、白光を返す。

首筋から鎖骨にかけて銀青の鱗が光り、波の表面のように揺らめいた。


一瞬の光。

だが、それだけで十分だった。


エズレンは息を詰める。

普段は快活な笑顔を向ける彼が、いまは嵐のなかただ一人――海と同じ深さの静寂をまとっていた。

(アウ、レク……?)


イグナシウスは本能で悟る。

首筋の鱗、海を宿したような髪。

それらは、人間として生きるにはあまりにも目立つ。

(……やっぱり、おまえ()同じか)


リウィアンの瞳がわずかに揺れた。

静蒼石に覚えていた既視感が、瞬く間に一本の線へと繋がる。

(……! あれは昔、旅の途中で見た…)


三人の思考が飲まれる中――


「ア、アクシェラだ……!」

「…ほ、本物がいたなんて……!」


乗客たちがざわめき、驚愕と恐怖を帯びた声で叫ぶ。外から突きつけられたその名が、全てを決定的にした。


アウレクは何も応えず、ゆっくりと縦笛を手に取った。


嵐の轟音が渦巻く甲板で、

彼の周囲だけ、潮が引くように静まる。


揺れる足場でも、一度も足を乱さず、真っ直ぐ船首へ進む。

まるで海そのものが彼の足を支えるように。


ざわめいていた乗客たちも、理由も分からぬまま息を呑んだ。

その背に宿る確信が、場の空気ごと支配した。


アウレクが笛を唇にあてる。


その瞬間――

暴風が、一拍だけ息を止めた。


次の刹那、旋律が放たれる。


耳ではなく、胸の奥で震える音色。

怒り狂う潮を撫でるように、柔らかく深い調べ。


波が一瞬迷い、風がわずかに速度を落とした。


祈りの音だった。

潮そのものに語りかける、太古から続く息づかい。


アウレクの声が重なる。


「――エズレン! その子に渡した“お守り”を、もう一度つけろ!」


その声は嵐より強く、まっすぐ胸を撃った。


エズレンは反射的に静蒼石を掴み、再び装着する。


瞬間、淡い青が石の奥から脈打ち、光が甲板の空気を震わせた。

アウレクの笛と共鳴し、潮の鼓動そのものが揺らぐ。


海が、息を継ぐ。


荒れ狂っていた波が、ゆっくりと落ち着きを取り戻す。

風が弱まり、雲が裂け、光が差す。


波が、音を聞き分けるように動きを緩めた。

まるで海そのものが、彼の次の言葉を待っているかのように。

アウレクは笛を下ろし、静かに詞を紡ぐ。


《――蒼き母よ

我らはその身より生まれし波

いま 荒ぶる潮の調べを鎮めんとす


風は囁き 水は還る

我ら潮導の民 御心を映す鏡なり


──女神リヴァスティアよ 息を継げ──


風と戯れ 波は舞う

女神の微笑み 我らの調べと交わらん


いま 恵みの海に祝歌を満たせ

──風よ、緑の潮を導き給え──》


詞が終わるころ、海は完全に静まっていた。

さっきまでの狂乱が嘘のように、陽光だけが海面をなでてゆく。


エズレンは震える息を吐く。


(これは……魔法でも、魔術でもない)


祈りと旋律。

それだけで、海が応えた。


アウレクが振り返る。

その瞳は深く、どこまでも澄んだ海の色を宿していた。


「……これが、潮導の務めだ」


潮が寄せ、小さな波が船腹に打ち寄せる。

静かに、だが確かに。


エズレンはその姿を見つめた。

嵐の中心で海と対話し、潮を鎮めた青年。


その背に宿るのは、――海に選ばれた者の使命。


船は再び、翠の海を静かに進み始めた。

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