第36話 朝凪の途
――翌朝。
町は昨日の混乱が嘘のように静けさを取り戻していた。
澄み渡る潮風に、白い雲がゆるやかに流れていく。陽光を受けた海面はきらめき、寄せては返す波音が、遠い祈りのように穏やかに響いていた。
宿の食堂では、エズレンとリウィアン、イグナシウスの三人が卓を囲んでいた。
焼き立ての黒パンに干し魚、海藻の浮かんだ温かなスープ。塩気のやさしい香りが、起き抜けの身体にゆっくりと染み渡っていく。
けれども、ひとり分の席は空いたままだった。
「……アウレクは、まだ起きてこないな」
明朗快活な彼の性格からして、朝には誰よりも早く顔を出すと思っていたエズレンは、意外そうに呟いた。
イグナシウスが、パンを千切りながらぼそりと口を挟む。
「アイツ、昨日の深夜こっそり宿を抜け出して、港のほうへ向かってたな。何してたかまでは知らねえけど」
「どうして深夜に?」
「あの嵐の中を?」
リウィアンとエズレンの視線が交わる。穏やかだった食卓に、わずかなざわめきが走った。
そのとき、階段を下りる軽やかな足音が響く。
「おはよ〜さん」
寝ぼけ眼のアウレクが、外套の裾を翻しながら食堂に現れる。
卓につくや否や、エズレンの皿から器用に魚をつまみ取る。
「んあ? 三人とも、どうしたんだ?」
「それ僕の……いや、なんでもない」
「そういや朗報!今日は航海日和だ。潮も風も、昨日とは打って変わって穏やかだろうさ」
そう言って魚を頬張る彼の横顔には、どこか秘密めいたものが宿っていた。
嵐の夜に何をしていたのか――問いかけようとした言葉は、結局誰の口からも出なかった。
やがてアウレクが「あ、そうだ!」と声を上げ、懐から小さな布包みを取り出した。
「ほら、エズレン。船旅は初めてなんだろ? 俺の故郷に伝わるお守りだ。旅の間、持ってるといいぜ!」
差し出されたのは、青い石を織り込んだ紐飾りだった。
太陽に透かすと、石の中心が淡く光を吸い込み、内から滲むように煌めいた。
「ありがとう、これは…?」
エズレンは書物でも見たことのない鉱物に目を奪われ、慎重に受け取った。
「それは“静蒼石”。俺の故郷でしか採れないんだ。航海の安全を祈る儀式に使われたりもするな!」
(静蒼石……?)
リウィアンの脳裏に、かすかな既視の影がよぎる。けれども掴むより早く、光のように消えていった。彼はわずかに目を細めただけで、何も言わなかった。
「そんな貴重なもの、本当にいいのか? 僕はアウレクに貰ってばかりで、何も返せていないのに…」
エズレンは遠慮がちに視線を落とした。
アウレクは快活に笑い飛ばし、エズレンの肩を軽く叩く。
「なーに細かいこと言ってんだ!“風に帆を、友に手を”って昔から言うだろ〜? 俺も次の港に向かうついでってやつさ。それにこれは貸してやるだけ!光暁海、一緒に行こうぜ!」
「それは心強いね、助かるよ」
リウィアンが穏やかに微笑む。
「マジかよ……」
イグナシウスは露骨に渋い顔をした。
「そうか…ありがとう」
エズレンはお守りを胸元に握りしめながら、胸の奥にじんわりとした温もりを覚えた。
◆
出航の時刻。
港は朝から人声と波音が混ざり合っていた。
荷を担ぐ船員の掛け声、樽を転がす音、潮風をはらんで翻る白帆。
大きな船体がゆるやかに揺れ、旅の始まりを告げる。
昨日のうちに目的地へ向かう船を探し、交渉を終えていたおかげで、今朝は順調に乗船の準備が進んでいた。
「いやぁお前さんら、運が良かったなぁ!昨日船出した連中は嵐でえらい目にあってな、今日遠出できんのはうちくらいだ!」
「それもこれも、この兄ちゃんの忠告のおかげだ!」
船乗りたちは豪快にアウレクの肩を叩き、潮気を含んだ笑い声を響かせた。
当の本人は照れくさそうに後頭部をかきながら笑っている。
少し離れてその様子を見ていた三人は――
「本当に、運が良かった」
「彼って、何者なんだろうね」
「そりゃドーモ」
三者三様の反応を見せる。
「さぁ、いよいよ出発だぜ!」
アウレクの明るい声に促され、一行は船へと向かった。
他の乗客たちも順に乗り込み、活気の波が甲板を満たしていく。
最初にアウレクが港から船へと渡り、軽やかに橋を渡る。
次いでイグナシウスは橋を無視して、無造作に船へ飛び移った。
リウィアンは苦笑しながらその後に続き、後ろを振り返る。
「エズレン、足元に気をつけてね」
「……ああ」
慎重に足を乗せた瞬間、板が揺れ、思わず息を呑む。
船へと渡った途端、地面の感覚が遠のいたように足元が不安定になる。
「おっと、やっぱり船は苦手みたいだね」
「……そうかも、しれない……」
リウィアンに支えられながら、不快感を押し殺していると、目の前に小瓶が差し出された。
「これ、飲んどけ。酔い止めだ」
「うっ……ありがとう」
エズレンは息を詰めながら一気に飲み干した。
「ハッハッハ! まだ出航してすらねえのに、もう顔色悪いぞエズレン!」
「イグ、いつの間に酔い止めなんて買ってたの?」
「さっき。港に来る途中で言ったろ、忘れたのか」
「色々あって、完全に頭から抜けてた……助かったよ、イグナシウス」
「……別に、自分の分のついでだ」
そっぽを向いたイグナシウスは、気まずそうに襟足をいじっていた。
「あ、照れてる」
「照れてるね」
「お? なんだお前ら楽しそうだなぁ!」
「どこがだよ!」
軽口が飛び交ううちに、船は静かに港を離れていた。
振り返れば、昨日までの喧騒も市場の活気も石畳の路地も――
すべてが次第に小さくなり、水平線の向こうに溶けていく。
甲板に立つアウレクは、頬をなでる風を受けながら空を仰いだ。
「ん〜! いい風だ!」
――こうして、一行の航海が始まった。
彼らを乗せた風が、まだ見ぬ光の海原へと帆を導いていった。




