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雷の子は、空を識る  作者: かつお武士
第1章 旅立ち
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第34話 潮騒との邂逅

丘を下る馬車の車輪が、石畳を小刻みに震わせていた。


「間もなく到着です!」

御者の声に、エズレンは窓の外へと視線をやる。


そこに広がっていたのは、見渡すかぎりの蒼。

光を抱いた水面が絶え間なく揺れ、星々を散りばめたかのように煌めいている。

空と海が溶け合い、果ての見えぬ広がりに、彼は思わず息を呑んだ。

「……これが、海……」

呟きは、誰に向けるでもなく零れ落ちる。

つい先ほどまで残っていた精霊の囁きの余韻を、一瞬で塗り替えるほどの眩さに。


近付くにつれ、潮の匂いが馬車を満たしてゆく。

波の寄せ返す音、荷を積み下ろす掛け声、異国の商人が張り上げる声――ざわめきが幾重にも折り重なった。


「皆様、お疲れ様で御座いました!」

御者の弾んだ声とともに、馬車は港町の入り口で止まる。


地に足を下ろした途端、潮の匂いはさらに濃くなる。

飛沫を含んだ風が頬をかすめ、喉には塩の味が広がる。

石畳の温もりが足裏に確かに伝わり、白帆のきしむ音や人々の声が交錯していた。

魚を売りさばく声、縄を締め上げる掛け声、子どもの笑い声と駆ける足音。

焼かれた魚の匂いと汗の混じる気配が、生々しく肌にまとわりつく。


イグナシウスは顔をしかめ、手をかざして太陽を睨む。

「……眩しいし、騒がしいし、落ち着かねぇ……」

すでに気だるげな吐息が漏れる。


対照的にリウィアンは驚きもせず、淡々と人波を見渡した。

「港町はどこも賑やかだね。ここも活気がある良い町だ」

旅慣れた声は穏やかで、ざわめきにかき消されることもない。


一方、エズレンは立ち尽くしたまま、光景に呑まれていた。

初めて目にする海の輝き。

人々の声、潮風の湿り気、魚の匂い――すべてが一度に押し寄せ、胸を圧し広げる。

「……」

声にならず固まる彼に、イグナシウスが苛立たしげに振り向く。

「おい、突っ立ってんな。行くぞ」


軽く背を押され、エズレンはようやく我に返った。

「気にすることないよ。初めてなら誰だってそうなるからね」

リウィアンの微笑に、エズレンは小さく頷いた。

それでも視線は、なお煌めく水平線に引き寄せられ続けていた。





三人が港町に着いたのは、太陽が頂点からわずかに傾いた頃だった。

空腹を覚えた一行は、通りの角に見えた酒場へと足を向ける。

店先では昼の間だけ軽食を売る露店も出ていて、香辛料の効いた肉や魚の匂いが風に乗って鼻をくすぐった。

「……もうここでいいだろ。匂いだけで限界」

イグナシウスがぼやき、店を即決する。


中に入ると、湿った木の匂いと、魚と酒の混ざり合った生臭さが漂っていた。

客の多くは交易帰りの船乗りや商人。声の大きい者、顔を赤らめた者がまばらに座り、荒っぽい笑い声が響いている。


エズレンたちは奥のテーブル席に案内され、勧められるまま海の幸を頼んだ。


――その時。

「オイ! お前今なんつった! あァ!?」

酒臭い声が店の奥で響き、木椀が床に叩きつけられた。

静まりかけた空気を、荒々しい怒声が切り裂く。


しかし、店員よりも早く、ひとりの青年が立ち上がった。

「はーいはい、そこまで! ここでそれ以上やったら、飯が勿体ねぇだろ?」


ゆったりとした外套に身を包んだ長身の青年。

頭巾を深く被り、髪も表情も影に隠れている。だが、その隙間から覗く褐色の肌には、太陽を思わせるような明るさが宿り、初めて見る者でも陽気で人懐っこい気配を感じさせた。

腰には縦長の木笛が揺れており、軽やかに響く音色を予感させる。


「アァン? 誰だテメェは!」

「同じ店で、同じ飯を食ってるただの客さ! 飯と音楽は楽しくあってこそ――それが俺の流儀なんでね!」


場違いなほど明るい笑みと軽口。

青年は酔っ払いに気安く話しかけ、まるで旧友のように肩を叩いた。

やがて怒りを鎮めさせると、くるりと店全体に向き直り、声を張る。


「せっかくだ、ここに居るみんなの食事を、もっと楽しく彩ろう! 聞いてってくれ、俺の音楽を!」


腰の笛を取り出すと、軽快な旋律が流れ出す。

その音色は不思議と人の心を解きほぐし、先ほどまで荒れていた客も、怯えていた客も、気がつけば肩の力を抜いて笑っていた。


(……すごい。騒ぎを収めただけじゃない……いつの間にか店全体を祭りみたいにしてる)

エズレンは素直に感嘆し、思わず視線を追う。

青年と目が合った。人懐っこい笑みが返される。


「……二人とも、知り合いか?」

エズレンが小声で問うと、イグナシウスは顔をしかめて吐き捨てた。

「んなわけねぇだろ。あんなのと一緒に居たら、目が潰れる」

「僕も初めて見る人だね」

リウィアンは困ったように笑った。


青年は遠慮なくこちらに手招きしていたが、イグナシウスが「煩い、耐えられねぇ」と不機嫌を隠さなくなってきたため、三人は祭り騒ぎと化した酒場をそっと抜け出した。





酒場を出た三人は、港の桟橋で船乗りたちに声をかけて回っていた。

縄のきしむ音、波の跳ね返すしぶき、遠くでカモメの鳴き声。町の喧騒の中に、海の匂いが混じっている。


「アンタら、今から船に乗るつもりか?」

背後から不意に声がかかり、三人は振り返った。さっきの青年だった。


エズレンよりも身長が頭ひとつ抜けているイグナシウスが真後ろで「げっ」と小さく呟いた。

その横で、リウィアンが苦笑し「こら、露骨に反応しないの」と小突く。


そのやり取りに少しだけ場の雰囲気が和らぎ、エズレンが前に出て答える。

「そうだ。僕らはグラディス公国付近まで北上する船を探している」


「ほぉ〜ん……」

青年は軽く鼻を鳴らし、目を細めた。

「アンタ、船は初めてだろ。命が惜しけりゃ、今から出る船に乗るのはやめときな」


「え?」

エズレンは思わず瞬きをした。

さっきまで太陽のように明るかった笑みは消え、青年の眼差しは研ぎ澄まされた刃のように鋭い。


「オイオイ兄ちゃん、なーに言ってんだよ!今日は雲も風もねぇ船出日和ってもんだ!」

すぐ横で縄を束ねていた船乗りが豪快に笑い飛ばす。


それを聞いた青年は、人懐っこい笑顔で振り返る。

「いや〜〜おっちゃん!これがマジなんだって!」


「素人が口出すなってんだ、海のことは俺たちのがよく分かってる!」

なおも食い下がる青年に、船乗りは少し怒気を孕んだ言葉を浴びせた。


「……潮の匂いが重い、波の呼吸が荒い――嵐はもうそこまで来てるんだ」

青年は短く、しかし真剣な声で返す。

視線の鋭さが、言葉以上の重みを持っていた。


船乗りは眉をひそめ、口元だけで笑いを押し殺す。

言葉では反発しつつも、肩のわずかな震えや目の奥の陰りに、確かに不安が漂っていた。

彼の胸中には、自分たちの経験とプライドを信じたい気持ちと、初めて聞く鋭い指摘へのざわめきが混じり合っている。


エズレンの胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

(……海を知らない僕なのに、なぜかこの人の言葉が、響く)


リウィアンがちらりと視線を向け、低く穏やかな声で囁いた。

「エズレン、落ち着いて」


その声に、少しだけ肩の力が抜ける。

エズレンは深く息を吐き、喉の緊張を抑えた。

「…出会って間もない貴方の言葉を、僕たちが信じるための根拠は?」

思わず問いかける声も、わずかに震えている。


青年は一度瞬きすると、にやりと歯を見せた。

「じゃあここらを案内してやるよ!宿も探そうぜ。そうすりゃ、俺の言う通り、空模様がすぐに答えを出すさ!」


その瞬間、港町の喧騒と潮風の匂いの中で、エズレンは自分の胸の奥に湧く期待と不安の混ざった感覚に気づいた。


「げっ……マジでこいつと……?」

イグナシウスが顔をそむけ、ぼそりと吐き捨てる。


「そういや、自己紹介がまだだったか!」

青年は両腕を広げるように一歩踏み出し、三人の手を次々と掴み、力強く上下に振る。

「俺はアウレク!よろしくな!」


「おい!揺らすな!」

イグナシウスが怒鳴ったかと思えば、「や、めろ……笑顔、こっちに…向けんな……」とすっかり憔悴した様子。


リウィアンは肩を揺らして笑っている。

「うーん、アウレクとイグは絶望的に相性が悪そうだね。僕はリウィアンだよ。そっちがイグナシウス」


「僕はエズレン。少しの間だが、よろしく頼む」


「おう、任された〜!」

アウレクが豪快に笑い、潮風に混じってその声が港町へ広がっていく。

晴れ渡る空の下、彼の陽気な笑顔は、まだ見ぬ水平線の向こうへと光を放ち続けていた。

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