第33話 風歌に呼応して
森の獣道を抜けると、ひらけた小さな泉に行き当たった。
澄んだ水面は風にさざめき、木漏れ日が散りばめられたようにきらめいている。鳥の声も遠く、ここだけが静寂に守られているようだった。
「ここで一息入れようか」
リウィアンが言い、三人は泉の縁に腰を下ろす。
イグナシウスは長い足を投げ出して水面を覗き込み、リウィアンは枝葉のざわめきを聞きながら穏やかな顔をしていた。
エズレンは言葉を持たず、ただその光景を静かに見つめている。
ふと、泉のほとりに目をとめた。
一輪だけ咲く、萌葱色の花。それは木々の合間から降り注ぐ陽光を受け、花弁が発光しているように見えた。
なぜだか心を惹かれ、エズレンは自然に手を伸ばす。
――触れた瞬間、空気が震えた。
泉の水面から逆巻くように光が立ちのぼり、現実の色彩を塗り替えていく。
森は確かに森のまま、泉も変わらずそこにある――はずなのに、すべてが一枚の薄膜を隔てたかのようにずれて見えた。
木々の輪郭は揺らぎ、葉の緑は常よりも深く、濃く、鮮やかに発光しているかのよう。
水面のきらめきは宝石の欠片のように細かく砕け、宙に舞って散っていく。
光と影の境界は曖昧に溶け、目を凝らせば凝らすほど、どこが現でどこが幻か分からなくなる。
「な、なんだ……これ……」
エズレンの声はかすかに震えていた。
「……揺れてる、か? いや、違うな」
イグナシウスは水面を見つめながら、隣のリウィアンに目をやる。
その視線を受けて、リウィアンは静かに頷いた。
「ああ――彼らに招かれたみたいだね」
世界が息を潜めた、その静寂の中で――
ざわ、ざわ、と葉擦れの音がした。
風が梢を揺らしたのかと思った瞬間、そのざわめきは意味を帯び、囁きのように耳の奥へ流れ込んでくる。
《…か、り……》
《…、ね……》
声だった。確かに、言葉だった。
次の瞬間、舞い散る光の粒が形を結ぶ。
泉のほとりに、小さな影がいくつもいくつも生まれていった。
《ひかりのたね!》
《また、きた!また!》
《あったかい!やさしいにおい!》
舌足らずに言葉を繰り返す声もあれば、鮮やかに跳ねる声もある。
淡緑の光に包まれた癒霊たちは、風に舞う花びらのように揺れ、笑い、群れをなしてエズレンのもとへと寄り集まっていった。
小さな手足を伸ばし、顔や手にまとわりついては、くすぐるように笑った。
――しかし、その輪の外にいたイグナシウスへ目を向けた瞬間。
《きらーい!》
《よるのにおい、やだ!》
囁きが重なり、小さな光たちは揃って顔をしかめる。ひとつ、またひとつとイグナシウスから遠ざかっていく。
「…はっ、言われなくても分かってんだよ」
拒絶されたことをまるで気にしていない様子のイグナシウス。
その横で、ふわりと漂うひときわ明るい光がリウィアンへと視線を向けた。
花弁のような髪を揺らし、丸い瞳を瞬かせ、首を小さくかしげる。
《んー……にんげん?? へんなのー》
ただの好奇心をそのまま口にしたような、悪意の欠片もない言葉。
しかしリウィアンはただ穏やかに答える。
「君たちの大好きな人間と共に旅をしているんだ。ここには迷い込んだだけだよ」
精霊は《ふーん》と小さく頷き、リウィアンの周囲を一巡してから、再びエズレンの方へ舞い戻っていった。
《ひかりのたね、きづいてくれた!うれしい!》
笑顔を浮かべ、両手を広げるように飛びつくその姿は、間違いなくかつて夢の中で出会った下級癒霊だった。
「やあ、また会えたな」
エズレンは静かに声をかけた。
「……僕は、ずっと君たちにお礼を言いたかったんだ。あの時、君たちがいなければ……僕は今、ここにいない。僕を癒してくれて、本当にありがとう」
ひと呼吸の間、泉のほとりに静寂が満ちた。
次いで、精霊たちが一斉に歓声をあげる。
《すごい!》《よかった!》《ありがとうって!》
小さな光の群れがぱっと弾けるように舞い、エズレンの周囲を楽しげに飛び回る。
エファリアはふわっと宙を舞い、恥ずかしそうに笑った。まるで頬を染めたように、髪が薄桃色に変化している。
《えへへ……またあいにきてね!つぎはね、しるゔぇりあ、よんでくるね!》
そう言い残し、群れは淡い霧のようにほどけて消えた。
気がつくと、泉のほとりは最初の静けさを取り戻している。
「……やっっべぇもん見たな〜」
ぽかんと口を開けていたイグナシウスが呟く。
「最後の聞いた? 次は中級癒霊だって。…夢かな?」
リウィアンは驚きを通り越し、もはや呆れた様子で笑っている。
「…いってぇ! オイ何で今俺をつねる必要があった」
「確認しただけだよ。やっぱり僕たち、貴重な体験をしたみたいだ」
「だったら尚更、自分ので確かめろよ」
言い合いをする二人の様子を見て――
エズレンは、無意識に小さな声をもらした。
「……ふはっ」
自分でも驚いたように、わずかな笑みがこぼれる。
二人がぎょっと振り返る。
「……お前、今笑った?」
「こっちも珍しいものを見たね」
エズレン自身も、少し驚いたように口元を押さえていた。
泉のさざめきに溶けるその笑みは儚く、しかし確かに、今までよりも柔らかかった。
その余韻が三人の間に静かに広がっていく。
――と。
「……!お探ししましたよ、皆様。まさか、こんな所で休んでおられるとは思いませんでした…」
木立の影から現れた御者は、肩で息をつきながら額の汗をぬぐった。
「泉の辺りに行かれたと思ったら、忽然と姿が見えなくなって……三十分は駆け回ったのです。御客人を見失うなど、領主様に顔向けできませんから…」
言葉には努めて落ち着きを装う響きがあったが、その声音には明らかな安堵と焦りが滲んでいた。
――現実が追いついてきた。
三人の胸に、冷たい感覚が一筋走る。
互いに視線を交わす。
幻のような出来事と、現実の境目。
その曖昧さを胸に抱いたまま、三人の旅路は続いていく。




