第32話 笑声から森影
イストリアの中心街を抜け、石畳の道を歩いてゆく。
活気ある市場の喧噪、風に揺れる布屋の幟、遠くに聳える白亜の教会塔――
そのひとつひとつを、エズレンは振り返るように目に焼きつけていた。
(今日で、ここともお別れか)
数週間の滞在でしかなかったが、彼にとっては確かな出会いと温もりが残された場所だった。
やがて三人は街外れの馬車停留所に着いた。
広場には木造の屋根付きの待合所があり、旅人や商人たちが列を作っている。
荷物を抱えた者、子どもの手を引く者、誰もがそれぞれの目的地へ向かう表情をしていた。
「まずは港町まで馬車で行くよ。そこから船で翠風海を北上、グラディス公国を抜けて、アルヴェーアを目指そう」
リウィアンが地図を広げ、細い指で道筋をなぞる。
「わざわざ海路を使うのか。陸路で北上した方が早そうに見えるけど」
エズレンが尋ねると、リウィアンは少し眉を下げ、柔らかな声で答えた。
「ここはアルヴェナ大陸の最南端で、ルヴァン帝国の一部。アルヴェーアは大陸の中心にあって、ほとんどの国と友好関係にある。
でも――ヴァルトリア王国だけは例外。何百年も前から対立していて、国境付近は今も穏やかじゃないんだ。そして陸路の最短距離では、どうやってもヴァルトリアを通ることになる」
「なるほど…随分詳しいんだな」
まるで見てきたかのような語り口に、エズレンは一瞬、疑問を覚えた。
だが次の瞬間、その思考はイグナシウスのぶっきらぼうな声に遮られる。
「知らねぇし、興味ねぇ」
イグナシウスは欠伸をしながら、照りつける日差しを避けるようにリウィアンの影に潜り込む。
「移動はリウの言った通りでいい。問題は、この行列だよなァ?」
停留所には十数人が並んでおり、先程出たばかりの馬車の大きさを思えば、順番が回ってくるのは当分先だ。
「少なくとも1時間は待つことになるだろうな」
エズレンは冷静に呟く。それを聞いたイグナシウスは気だるげにしゃがみ込み、石畳に腕を投げ出した。
「アッチィ〜〜ダリィ〜〜」
周囲の人々が息を呑む。子どもが親の背に隠れ、商人が気まずそうに視線を逸らした。
あまりに整った容姿が不機嫌に歪むと、その美しさは鋭い刃のような威圧感へと変わる。
そこにいるだけで放たれる圧に、列は自然とわずかに縮む。
「……んあ?ラッキー♪なんか空いてんじゃん」
「ちょっと、イグ?駄目に決まってるでしょ」
「ハァ?いつもなら便乗して割り込むくせに……エズレンの前だからっていい子ぶってんなよ、アンちゃん」
「……その呼び方やめてって言ったよね」
リウィアンの穏やかな笑顔が消え、空気がひりつく。
「おっ!見ろ、エズレン。これがリウの本性だ!!」
「二人とも、並ぶのに飽きたなら僕が待ってるから、その辺りを散策してきてもいいぞ」
エズレンは呆れたように二人をなだめるが、火花を散らす視線は止まらない。
その時――。
人混みをかき分け、一人の若い御者が駆け寄ってきた。
白い制服の上着にはイストリア家の家紋が縫い込まれている。
「御三方を港町までお送りするようにと、領主様より仰せつかりました!ここより少し離れた場所に馬車をご用意しております!」
「〜〜〜!!!レオネル様、最ッ高〜!!」
「至れり尽くせりだね」
「僕たちがここにいるって、よく分かりましたね」
イグナシウスが子どものように叫び、リウィアンは嬉しそうに微笑む。
エズレンは疑問を口にするも、二人がすでに御者のあとを追って歩き出したため、慌てて続いた。
(((た、助かった〜〜〜)))
残された待機列の人々が心底安堵したのは言うまでもない。
――こうして、旅は再び始まった。
ゼスの家を出た時は、一人きりの旅立ちだった。
聞こえるのは自分の息遣いだけで、背中には常に孤独が張り付いていた。
だが今は違う。
隣には喧嘩を始めそうな二人がいて、その賑やかさが、不思議と寂しさを押し流してくれる。
(仲間と歩む旅って、こんなに違うんだな……)
三人を乗せた馬車は静かに進み出した。
遠ざかる教会の白壁が陽光を浴びて輝いている。
別れの余韻を胸に抱きつつも、視線は自然と前を向いていた。
「さて、と……まずはこいつを試してみるか!」
イグナシウスが取り出したのは、鮮やかな銀色に光る腕輪。レオネルから餞別として渡された魔導具のひとつだ。
腕にはめると淡い光が瞬き、指先から小さな火花が散る。
「おおっ!見ろよこれ、一瞬だけ火種を出せる!」
「ちょっ……危ないってば!馬車の中でやらないで!」
リウィアンが慌てて身を引くが、イグナシウスは少年のような顔で笑っている。
エズレンは興味深そうに光を追いかけた。
「外気の魔素を収束させて、規定量を計測したら発火点まで一気に温度を上げる仕組みか。魔素の蓄積器が小さい分、効果も短時間……これ、イグナシウスは使うのか?」
「いーや? 魔導具なんか魔法が使えねぇ人間が使うもんだろ。俺は暇つぶしにしてるだけ」
腕輪を外し、指先でくるくると遊びながらイグナシウスが答える。
「ていうかエズレン!魔導具の効果を見ただけで、仕組みが分かっちゃうの? 本当に凄い知識量だね」
リウィアンの目が輝き、会話にぐっと身を乗り出す。
「父さんの書斎に、魔術や魔導具の本が沢山あったから。小さい頃から読み漁ってたんだ」
(あの頃は本ばかり読んでいたけど……こうしてゼス以外の誰かと話すのも楽しいな)
馬車の車輪が軋み、木の窓枠を通して風が入り込む。
その心地よさに包まれながら、会話はまた次の話題へと移っていった。
「それはそうと、港町に着いたらまずは酔い止め探さないとな〜」
リウィアンが地図を畳みながら呟く。
「翠風海は五大海の中で一番穏やかだし、必要なくね?」
イグナシウスは腕を組んでふんぞり返る。
「いや、だってエズレンって船旅初めてでしょ?」
「船旅どころか、海を見たことも無いな」
「ほら。なんとなくだけど、エズレンって船酔いヤバそうだよね」
「あ〜〜〜有り得る」
「そ、そうなのか……少し不安になってきた」
「まぁ、何でも初体験しとくのが旅の醍醐味だよ」
馬車の揺れが次第に穏やかになり、窓の外には森の緑が濃く映りはじめた。
笑い疲れたようにイグナシウスが欠伸をし、リウィアンは地図を閉じて荷袋に仕舞う。
エズレンは小さく息をつき、胸の奥に残る高揚感を確かめた。
(……なんだか、胸がざわつく)
賑やかさの余韻の中、不意に訪れた静寂。
その静けさを裂くように、御者の声が前から響いた。
「ここらで一度、馬を休ませます! 泉が近くにありますので、皆様もどうぞ!」
木々の隙間から差し込む光が揺れ、緑の影が窓辺を流れていく。
三人の視線が自然と外へ向けられた、その先に――確かに、何かが待っていた。




