第29話 芽吹く縁
廃村での戦いから、一週間が経過した。
魔力の枯渇によって昏睡状態にあったエズレンは、目覚めた翌日には自力で立ち上がり、さらにその翌日には契約精霊を再召喚できるまでに回復していた。
澄んだ春の朝、静かな客間の一角。
薄陽が差し込む窓辺に立つエズレンの指先に、小さな稲妻がバチッと弾ける。
その光が次第に広がっていき、やがて重厚な気配とともに、雷の精霊たちが姿を現した。
《――呼んだか、我が主よ》
《主のため、再びこの身を刃と為そう》
《主の傍に在ることは、我らの願い》
「ああ……ありがとう」
エズレンは穏やかな表情を浮かべ、一歩前に出て、精霊たちとまっすぐに向き合う。
「……僕が倒れた時、お前たちも一緒に戻されたんだよな。精霊って、契約が切れるみたいに突然現世から引き離されると、心の核――存在の中心みたいな部分に傷がつくことがあるって、本で読んだ。それがすごく痛むって……」
少しだけ俯いた声が、精霊たちの前でそっと続く。
「沢山助けてもらったのに、僕のせいでそんな思いをさせてたかもしれないって思ったら……本当に、ごめん」
その言葉に応えるように、テンペスタが鼻先をそっとエズレンの手元へ寄せる。ぱち、と微かな放電音。けれどそこに痛みはなく、指先に残ったのは、どこか温かい感覚だった。
《……ふむ。力は戻りつつあるようだ》
《主よ、我らは謝罪を望んではいない》
《ただ再び、共に歩むことを悦ぶまで》
「……! ああ。これからも、よろしくな」
その光景を目にした医師は、扉口で息を呑んだまま立ち尽くしていた。 「信じられない……奇跡だ……」 そう繰り返すその声音には、信仰というより、理解を超えた現象に対する、明確な畏れが宿っていた。
――そして今、エズレンはイグナシウス、リウィアンと共に領主邸の本館へと向かっていた。
廊下の大理石の床には陽光が差し込み、春の匂いを帯びた風がカーテンをふわりと揺らしている。 使用人が三人を先導し、やがて重厚な扉の前で足を止めた。
扉の向こうで三人を迎えたのは、淡藍の装束を纏う男――レオネル・フォン・イストリア。
イストリア領を束ねる若き領主でありながら、その佇まいには気取ったところが一切ない。
手入れの行き届いた肩掛けの上衣に、胸元を飾るのは控えめな金糸の刺繍。けれどそれらは決して華美ではなく、重ね着の裾や袖口には戦場でも動けるよう計算された裁ちが施されていた。格式と実用を兼ね備えたその衣装は、まさに彼の気質そのものを物語っている。
背筋をすっと伸ばした長身痩躯。その柔らかくも凛とした眼差しには、静かにして確かな威厳が宿っていた。
「よく来たな。掛けるといい」
領主は微笑みを浮かべ、エズレンに目を向ける。
「……体調のほうは、もう問題ないのか?」
「はい。体力も戻りました。ご心配をおかけして、すみません」
エズレンが小さく頭を下げると、領主は僅かに首を横に振った。
「無理もない。あれほどの魔法を扱いながら、今こうして立っているだけでも異例だ。……だが、安心した」
その声音には、事務的な評価ではなく、個としての安堵が滲んでいた。
「今日は、君たちに依頼した精霊災害調査の顛末と、その報酬について話しておこう」
そう言いながら、領主は机の前に腰を下ろす。
彼の背後に立つ大窓からは春光が差し込み、淡い金の光が上衣の縁をかすかに縁取っていた。
「あの日、現場にいた騎士たちには緘口令を敷いた。そして事件そのものは、“局地的な自然災害”として公的に処理している」
エズレンは、その言葉の意味をすぐに察した。
領主の視線が、机越しにまっすぐ彼に向けられる。
「……エズレン。君の力はあまりに特異だ。今はまだ、それが広く知られていい時ではない。
だから記録上、君たちは“調査の途中で主都へ帰還した”という扱いにしてある」
「……お気遣い、ありがとうございます」
机の上には、封蝋された書簡や、印の入った地図が几帳面に並べられていた。
日々、膨大な事務をこなしていることは明らかなのに、不思議と空気に焦燥感はない。
まるで、あらゆる物事がすでに掌握され、落ち着きのなかにある――そんな印象を、領主はごく自然に纏っていた。
エズレンは、思わずわずかに目を見開く。
(こんなに忙しい中で……僕のために、こんなに細やかに……)
小さな驚きと、胸の奥をほのかに満たす温かさ。だが、それを見透かしたように、領主が続ける。
「君たちがいなければ、この地は未曾有の混乱に陥っていた。それを思えば、これくらい大したことではない」
その穏やかな声には、確かな信頼があった。
それは、領主としての言葉であると同時に、一個人としての誠実な感謝でもあった――。
「そしてこれは、我々からの感謝の印だ。君たちの旅路に、どうか役立ててほしい」
静かな合図とともに、使用人たちが次々と運び込む。 革袋いっぱいに詰められた金貨、幾何学模様が刻まれた魔導具、強化された革靴、防寒用の外套、保存性の高い携帯食糧。そして――
「これは……?」
エズレンの前に差し出された、一枚の厚紙。 光にかざすと、白銀の箔押しでイストリア家の紋章が浮かび上がる。その下には、美しい筆跡で領主の署名が記されていた。
「それは私の身元保証状だ。通常は血縁者か、ごく限られた家臣にしか渡さない。各地の貴族や要人にも通用するだろう」
「うおっ、マジで!? これぜんぶ!? 俺らに!? マジで!?」
イグナシウスが歓声を上げ、真っ先に革袋を掴む。耳元で振ると、金貨の音が部屋に響いた。
「これ……アーケイン・ツァリオン系統の術式!? しかもこっちの大陸で現物!? ありえない……!」
リウィアンは宝石のような装飾が施された魔導具を食い入るように見つめている。
一方、エズレンの表情はやや曇っていた。
「……領主様。僕たちのしたことなんて、ほんの些細なことで……これでは、貰いすぎです」
領主はわずかに口角を上げながらも、真っ直ぐな視線を向ける。
「エズレン。礼とは気持ちを形にするものだ。過度な遠慮は時に礼儀を欠くことになる。覚えておきなさい」
その穏やかな声音に、エズレンは小さく息を呑んだ。胸の奥で、何かがそっと揺れる。
「……はい。ありがとうございます」
「それと、もう一つ」
領主は椅子から立ち上がり、机の脇を回ってエズレンの前に歩み寄る。
その動作ひとつとっても無駄がなく、けれど不思議と威圧感はない。ただ、まっすぐに彼の名を呼ぶような静けさだけがそこにあった。
「“領主様”はやめてくれ。私は君と、もっと近しい関係でありたいと、そう願っている」
「え……でも……」
エズレンは思わず言葉を詰まらせた。
誰かに、こんな風に求められることがあるなんて思ってもいなかった。
それも、ただの好意や感謝ではなく、名を呼ぶことで繋がる“対等な関係”を望まれていることが、心に小さな熱を灯す。
(でも……僕がそんなふうに呼んで、失礼にはならないんだろうか?)
けれど、目の前の領主の表情は、どこまでも穏やかで、どこまでも本気だった。
貴族としての立場を背負ったまま、それでも“ひとりの人間”として、近づこうとしてくれている。
「レオネルでいい。それは、私からの“お願い”だ」
その声音に、指先がほんの少し震えた。
それでも、エズレンは小さく頷き、視線をそっと上げる。
「……はい。……レオネル……様」
呼ぶたび、距離がほんの少し縮まる気がした。
この人が、なぜここまで自分に親しくしてくれるのか。
理由はまだ、完全にはわからないけれど――それでも、この手を差し出してくれたことに、応えたいと思った。
「ああ。それでいい」
微笑むレオネルの声が、春の陽射しのようにやわらかく響いた。
――こうして、旅の終わりと新たな門出の狭間に、ひとつの絆が静かに芽吹いた。




