第2話 風の導き
春の訪れを告げる風が、森を優しく撫でていく。
冬の名残を払うように、枝先には柔らかな新芽が芽吹き、小鳥たちのさえずりが澄んだ空に溶け込んでいた。
エズレンは森を抜ける小道を歩きながら、遠くに見える村の景色を眺める。
春の祝祭ーーこの村で年に一度、季節の巡りと豊穣を祝う日。広場には花が飾られ、人々は歌い踊り、命の目覚めに感謝を捧げるのだという。
けれど、村へと向かうエズレンの胸の奥はわずかな苛立ちが消えず、くすぶっていた。
(……あの後も、結局うまく制御できなかった)
指先に意識を向けてみる。ほんの少し魔力を流してみるが、目に見えない力の奔流はすぐに霧散し、うまく巡らない。痺れるような感覚が皮膚に残り、焦燥感がこみ上げた。
この森から一歩外に踏み出したところで、自分は何かを変えられるのかーーそんな疑問が、頭から離れない。
「……本当に、行くのか」
自問しながらも、足は止まらなかった。
ゼスのもとで暮らす日々に不満はなく、そこにいれば傷つくことも迷うこともなかった。けれど、今のままでは前に進めない気がした。
(ーー僕がどのように在りたいか、か...)
先日のゼスの言葉を反芻する。
これまでにも沢山のことを教わってきた。ゼスは僕が立ち止まる度、進むべき方向を示してくれた。今回のこともそうなのだろうかーー迷いと期待が絡み合う中、背後から静かな声が届く。
「エズレン」
振り向くと、ゼスが立っていた。手には小さな木箱が抱えられている。
「村の祭りに行くのだろう?これを持っていきなさい」
差し出された木箱を受け取ると、木のぬくもりが手に馴染んだ。
「……これは?」
蓋を開くと、銀のペンダントが横たわっていた。風を象る繊細な紋章が刻まれ、中央には若草色の石が嵌め込まれている。光を受け、淡く輝くその姿に、エズレンは言葉を失った。
「それはーーお前の母、エラリスの形見だよ」
ゼスの声は春風に乗り、静かに響く。
「彼女は神ヴェラティアに仕えた大聖女で、風と癒しをもたらす者だった。これは、その証だ」
「……神ヴェラティアに仕えた、大聖女...」
聞き慣れない言葉に、エズレンは思わず目を瞬かせる。
「お前の母は、村の祭りでも人々を癒し、傷ついた者に手を差し伸べていた。……お前も、彼女と同じように誰かを癒せるはずだ」
ゼスは懐かしむように目を細め、そっとペンダントをなぞる。
「だが、その力をどう使うかはお前次第だよ」
その言葉が、胸に深く突き刺さる。
魔力はあるーーそれはわかっている。けれど、今の自分は暴走させることしかできない。母のように誰かを癒すなんて、想像もつかなかった。
「……僕が?」
戸惑いの混じる声に、ゼスは静かに頷く。
「お前が何を選ぶかは自由だ。だが、この形見はお前を導くだろう。迷った時は、手に取って思い出せーー彼女がそうしたように」
エズレンはペンダントをそっと握りしめた。 冷たい銀の感触が痺れていた指先を癒していくようで、不思議と心が少しだけ落ち着くのを感じる。 頬を優しくさらっていく風が、いつもより暖かく心地よい。
「……ありがとう、ゼス。行ってくるよ」
低く呟くと、ゼスは口元に微かな笑みを浮かべた。
森を抜けると、目に飛び込んできたのは初めて見る光景ばかりだった。
村の広場には花々が飾られ、色とりどりの布が風に揺れている。忙しなく祭りの準備を行う人々の表情は皆明るく、駆け回る子供たちの楽しげな笑い声が響いている。
「ここが……」
エズレンは立ち止まり、ポケットにしまったペンダントを握る。
母がかつてこの場で人々を癒していたという事実が、今になって鮮やかに胸を打った。
自分は母のように誰かを癒せるのかーーいや、それ以前に、自分すら理解できていないのに。
(……それでも、行ってみないとわからない)
わずかに吹いた風が、髪をくすぐった。
迷いが消えたわけではない。けれど、この場所に立ったことで、ほんの少しだけ前に進める気がした。
「……行ってみよう」
小さく呟き、エズレンは村へと歩き出した。
――それは、閉ざされた世界の扉が開かれる、小さな始まりだった。