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雷の子は、空を識る  作者: かつお武士
第1章 旅立ち
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第25話 心の輪郭

――まどろみの中、何かに包まれている感覚があった。優しくて、柔らかくて、どこか温かい安らぎ。


頬にふれる感触がくすぐったいような、風がそっと撫でていった感触に、意識がゆるやかに覚醒へと引き上げられていく。


どこからか、葉が擦れ合うような、さらさらとした音が耳の奥をくすぐった。まるで誰かが笑っているようなその気配に、エズレンはうっすらと目を開く。


まだ視界は霞みがかっていて、はっきりとしない。しかし天井には、見慣れない彫刻のある漆喰。身体を包み込む寝具はふかふかで、肌を撫でる風にはほんのりと花の香りが混じっている。


吹き込んできた風の方向へ視線をやると、少しだけ開いた窓が見えた。カーテンが揺れ、光の粒がふわふわと舞っている。


しかし瞬きをすると、それらは跡形もなく消えていた。


(……今のは……)


確かにそこに“何か”がいたような――そんな残り香だけが、ほんの少しだけ胸に残った。


(それより…ここ、は……?)


上体を起こそうとして、ずしりと身体が沈み込むような重さに思わず眉をひそめた。筋肉のきしみと、内側からひどく乾いた喉の感覚がじわじわと意識を蝕んでくる。


――その時。


「あ!!」


跳ねるような声が響き、カツカツと音を鳴らす忙しない足音が駆け寄ってくる。

イグナシウスだ。勢いよく扉を押し開けて真っ先に飛び込んできた彼のすぐ後ろから、リウィアン、そして威厳ある佇まいの領主が続く。


「……っ、…は」


“ここはどこ?”と問おうとするが、喉が砂漠のように乾いて声にならない。かすかに動かせた唇から、空気だけが漏れていく。


そんなエズレンを見て、リウィアンがベッド脇に近づく。サイドテーブルに置かれた水差しからグラスに水を注ぎながら、穏やかに言葉を届けた。


「君があの場で倒れた後、この領主様の屋敷に運ばせてもらったんだ。……もう三日も眠っていたんだよ、エズレン」


まるで、問いかける前に心を読まれたような絶妙なタイミングに、エズレンは思わず瞬きをする。返された言葉が頭の中で静かに反響し、遅れてその意味を咀嚼した。


(三日も……眠っていた……)


言葉も思考も、綿の中を泳ぐように鈍い。

けれど、確かに今、自分は生きている。その実感だけが胸にぽつりと灯る。


リウィアンが差し出したグラスを、エズレンは震える手でそっと受け取る。冷たい水の感触が指先から腕を伝い、ようやく世界の手触りが戻ってきたような気がした。


イグナシウスはそっぽを向いたまま、ベッド横に備えられたサイドテーブルに片肘をつき、もう片方の手をゆっくりと伸ばした。


ふわりと風に揺れる灰銀の髪に指先が届きかけて――けれど、彼の手は触れることなく、寸前で方向を変える。代わりに、エズレンの頭のすぐ傍にあるシルクのシーツを掴み、ぐしゃぐしゃと雑に握りしめた。


「……ったく、お前は……」


顔を見ようとはしないまま、掠れた声でそう呟く。


「……あの時、お前を止められなかった。お前が、自らを犠牲にしようとしているのが分かったのに、ただ見ている事しかできなかった……悪かった」


ばつが悪そうに目を逸らしながら謝るイグナシウスの様子に、エズレンは少し驚きつつも、手元のグラスに視線を落とした。

そのまま水を一口含み、静かに喉を潤す。体の奥に沁みわたる冷たさが、ようやく目を覚まさせてくれるようだった。


「……僕は、僕がやりたいように、やったんだ。……心配かけて、ごめん…ありがとう」


掠れた声でゆっくり応えると、イグナシウスはぴくりと反応し、視線を逸らした。わずかに耳が赤くなった気がしたのは、気のせいだろうか。


彼は何も言わず、空になったグラスを無言で手から抜き取り、やや雑な仕草で水を注ぎ直す。

その手元はほんの少しだけ落ち着きがなく、普段よりも指先に力がこもっているように見えた。


注ぎ終えたグラスを、エズレンのもとへそっと差し出しながら、彼はふいに呟く。


「……誰も心配なんかしてねーし」


その言葉はどこか拗ねたようで、けれどどこか優しくて――エズレンは受け取った水のぬくもりとともに、胸の奥がぽうっとあたたかくなるのを感じていた。


その時、静かに足音が床を踏みしめる音が響いた。領主が一歩前に出て、窓辺から射す光に片眉を潜めながら口を開く。


「……エズレン。医師の診断によれば、今の君は極度の魔力不足状態だそうだ」


低く落ち着いた声が、室内の温かな空気に一滴の冷水を垂らすように響く。


ようやく意識がはっきりしてきた頭に、領主の言葉がひどく重たくのしかかった。


(魔力不足……)


それは、体内魔素の枯渇によって身体機能が制限される、深刻な状態を指す。


初期症状としては手足の震え、頭痛、息苦しさが現れ、進行すれば意識の混濁や一時的な五感の喪失に至ることもある。


だが、エズレンにとってそれは、これまで無縁の言葉だった。


生まれつき、制御しきれないほどの魔素を内に抱えていた彼は、日常的に余剰魔力の制御に頭を悩ませていたほどで、“枯渇”とは最も縁遠い存在だった。


そもそも、現在主流の“魔術”は自然界に存在する魔素を術陣を媒介として流用するのに対し、“魔法”は使用者の体内魔素を直接消費するもの。 魔法を扱える者自体が極めて稀少なこの時代、魔力不足に陥る者など、滅多に存在しない。


だからこそ――今の彼の状態は、誰が見ても異常だった。


「君は、もともと並外れた魔力量を有しているのだろう。医師の見立てでは、全快までにおよそ二週間を要するとのことだ」


領主がソファから立ち上がり、ゆっくりとベッドへ歩み寄る。その顔には、苦い後悔の色がにじんでいた。


「完治するまでの間は、当邸に滞在するといい。必要な物があれば、遠慮なく言ってくれ」

「二週間も……そうですか。お気遣い、ありがとうございます」


エズレンはゆっくりと身を起こし、枕元に座ったまま静かに礼を述べた。


「……エズレン。此度の件、全ては私の見通しの甘さに起因するものだ。君を安易に巻き込み、危険に晒したこと、深く詫びる」


そう言って、領主は深く頭を下げた。

くすんだ銅色の髪がわずかに揺れ、真摯な謝罪の気配だけが静かに残る。


「……領主様。これは僕自身の選択の結果なんです。だから、気にしないでください」


一瞬だけ視線を落とし、エズレンは自分の胸元に手を当てた。


「むしろ、あの時背中を押してくれて、ありがとうございました」


口に出してみると、胸の内の感情が輪郭を持ち始める。誰かを助けたいと思う心、それは確かに、自分の中にある「本当の想い」だった。


領主は、ふっと穏やかな目をして頷く。


「エズレン。君の功績には、私としても計り知れぬ価値を見出している。我が家は今後、いかなる状況においても君の望みを尊重し、相応の礼をもって応えることを誓おう」

「……僕だけの力じゃないですよ」


エズレンは微笑み、そっと視線を傍らのイグナシウスとリウィアンへと向けた。


「イグナシウスやリウィアン、それに領主様方が一緒だと分かっていたから、何とかなったんです。一人だったら――絶対に無理でした」


誰かのために力を使う。感謝される。そのことが、こんなにも心をあたためるのだと、初めて知った。


領主はその言葉に少し目を見開き、しばし沈黙したあと、低く呟く。


「……若くして、かくも謙虚な在り方を保てるとは。だが、それゆえの脆さもまた、否定できないな…」


そして、ふと何かを思い出したように顔を上げる。


「君のような力と心を併せ持つ者こそ、聖騎士…あるいは神官戦士としての適性があるのではないか?」

「聖騎士…神官戦士…?」


首を傾げたエズレンに、リウィアンが穏やかに続ける。


「有事の際の大事な戦力だよ。国に仕えるか、神殿に属するかで管轄は違うけれど、どちらも神の名のもとに戦い、人々を守る役目を担っているんだ」


その言葉を受けて、領主が深く頷く。


「君のように、誰かのために動ける者には、うってつけだろうな」

「なるほど……少し、考えてみま――」


エズレンが言いかけたその瞬間。

言葉が不自然に区切られ、皆の視線が彼に集まる。


ベッドシーツに、ぽたりと赤い染みが広がっていた。


「あ、鼻血……」


自分でも驚いたように、エズレンが呟く。意識が朧げで、どこか他人事のようだった。


「おい馬鹿野郎!お前しんどいなら言え!つか寝とけ!!」

イグナシウスが慌てて立ち上がり、枕を整えながら眉を吊り上げる。


「起きたばっかりで、長話させすぎたみたいだね?」

リウィアンは苦笑しつつ、そっと手のひらで彼の額を撫でる。


「重ね重ね、無理を強いて申し訳ない……」

領主も眉を下げ、額に手を当てて悔いるように呟いた。


三者三様の反応が飛び交う中、エズレンはその声を遠くに聞きながら、そっと瞼を閉じる。


(つぎは……もう少し…上手く、やりたい…な………)


その呟きは、窓の外から差し込む光に溶けて、やがて静かな寝息へと変わっていった。

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