第24話 浄雷
戦場は、まさに混沌の渦だった。
空には鉛色の雲が渦巻き、時折閃く雷光が地を裂く。地面は既に踏み荒らされ、泥と血と瘴気が入り混じったぬかるみと化している。
足を取られた騎士の一人が呻き声と共に倒れ、その隙を突くように牙を剥いた魔獣が襲いかかる――が、間一髪、別の騎士が槍を突き出し、その顎を貫いた。
しかし、倒しても終わらない。
絶命したはずの魔獣が、ずるりと音を立てて蠢き、再び立ち上がる。死の痛みなどものともせず、燃えるような赤い眼で騎士たちに再び牙を向ける。
討伐経験のある猛者たちでさえ、その異常なまでの再生力と不死性に徐々に疲弊し、焦燥の色を滲ませている。
しかしその中で、雷霊たちの戦いぶりは異彩を放っていた。
テンペスタが空を裂いて咆哮すると、その音が魔獣たちの鼓膜を貫き、脳を揺らす。一瞬にして動きが止まった魔獣の群れに、フルミナとフルミオが連携し、雷槌を振り下ろす。
雷光が地を這い、裂けた大地ごと敵を貫いた。轟音とともに魔獣たちは吹き飛び、黒煙を上げて地に伏す。再び立ち上がるかと思われたが、まるで操り糸が途切れたかのように、その身体は微動だにしなかった。
皆が警戒を滲ませながら注視していると、魔獣の頭部から何かがゆっくりと立ち上る。それは単なる黒煙ではない。禍々しい靄――まるで負の感情が物質化したかのような瘴気であり、視る者の精神を蝕むかのような不快感を伴っている。
その靄は、ゆらゆらと揺れながら一カ所に集まり始める。何かを構築するかのように、空気が歪む。雷霊たちが警戒の咆哮を上げ、フルミナの槌が防御の構えを取る。
――だが、それは間に合わなかった。
靄の塊が、まるで産声を上げるように呻き声を発し、瘴気を震わせて“それ”が現れた。
それかつて精霊だった者の、見る影もない成れの果て。全身を纏う瘴気は肉体の輪郭すら曖昧にし、触れるだけで命を腐らせるような、死の気配を放っている。無数の眼のようなものが身体のあちこちで蠢き、口らしき裂け目からは低い呻きと、耳鳴りにも似た音が漏れ出す。
それは、ただ“そこに在る”だけで、世界の理に亀裂を走らせるような異物だった。
黒煙を纏い、歪んだ形で地を穿つように佇むその影。精霊とは本来、自然の調和と祝福を象徴する存在のはずだ。だが、今エズレンの目の前に立つそれは——まるで崩壊そのものの化身。
「……これが、堕ちた精霊……」
口をついて出た声は、かすれ、震えていた。喉が焼けるように乾いている。
足元がふらつき、膝がわずかに震えた。息をするのも苦しい。
あの存在に、正面から抗えるのか。自分の力で、本当に——。
(無理だ…僕だけじゃ、敵うわけがない…)
脳裏に過ったのは、圧倒的な無力感。
身体の芯を冷たいものが這い、せっかく練り上げた魔力が、霧のように指の隙間から零れ落ちていく。
闇が、思考を蝕んでいく。
不安、恐怖、そして諦めの声が、内側から囁きかける。
その時。
「——呑まれるな、エズレン!!!」
鋭く、しかしどこまでもまっすぐな声が、背後から突き刺さった。
刹那、風を裂く音。
エズレンの死角から迫っていた魔の矢が、剣閃によって叩き落とされた。
「……っ!」
声の主が誰か、確認するよりも早く、身体が反応して振り返る。
そこに立っていたのは、剣を携えた一人の男——髪を乱しながら、鋭い眼光で戦場を睨みつける領主だった。
「恐れも迷いもあって当然だ。それでも、君の中には確かに“進もう”とする声があるはずだ!」
彼の声は、怒号でも説教でもない。ただまっすぐ、エズレンの胸を撃ち抜く“信頼”の声だった。
(……そうだ…)
ほんの一瞬、目を奪われた。
風を巻く銀刃、返り血に染まった外套。傷を負いながらも、背中で道を切り拓くその姿は、まるで武神のごとき凛々しさだった。
(僕は今、1人じゃない…)
視線を前に戻す。
その瞬間、視界が広がった。各地で傷つきながらも戦い続ける仲間たちの姿。
炎に包まれながらも退かぬ盾。治癒の魔術に祈りを込め続ける者。血を流しながら、それでも誰かを守ろうと立ち上がる姿があった。
皆、エズレンにこの一手を託している。
(僕に、この“瞬間”を託してくれた)
息を整える。膨れ上がる魔力が、再び掌に戻る。
「……僕が、やるんだ」
決意を固め、詠唱を始める。
「汝が光を忘れし刻、天は剣を掲げる——雷光よ導け、その御魂を還すため――」
悪夢のような存在の目が、エズレンを捉える。怒号を上げて、堕ちた精霊は牙を剥き、迫り来る。
雷霊たちの雷光がそれを切り裂こうとするが、堕ちた精霊はそれに無反応。雷霊を無視し、無数の触手のような瘴気を放ちながら前進してきた。
だが、エズレンは恐怖に立ち尽くすことはなかった。 否、胸を掴むような恐怖は確かにあった。けれど、それ以上に——
(僕が、終わらせる)
その想いが、彼の足を前へと押し出した。
「――断て。“雷葬の剣”」
その瞬間、天が裂けた。
掌に集った魔素が打ち上がり、青白い閃光が空を貫く。 雷鳴が一拍遅れて轟くと、彼の手に“それ”が宿った。 空の怒りを象ったかのような、稲妻の刃。
選んだのは、知識の中で最も高火力とされる雷属性の魔術。堕ちた精霊を倒すために。これ以上、犠牲を出さないために。
「終わってくれ……これで……!!」
放たれた刃が大地を裂き、精霊の身体を真っ向から貫いた。火花が舞い、激しい衝撃波が吹き荒れる。誰もが、これで終わると思った。
だが。
黒い瘴気が、霧のように立ち込める。精霊は、なおもその身を維持していた。
雷は届いた。けれど、それだけだった。
(なぜ……消えない……?)
精霊は、自然そのものから生まれた存在。
魔術とは、自然界の魔素を収束し、形にする力。
つまり、魔術とは自然の一部を使う技。だが、精霊はその“本質”——魔素そのものだ。魔術で干渉できる相手ではない。
(どうすれば…何か、他に手立ては…)
エズレンの脳内が再び焦燥に支配されかけたその時、脳裏に過去の記憶が駆け巡る。
カールドレアで見た、壮大な浄化の大儀式。大司教と神官達が集い、聖杖と祈祷陣を使い悪魔の影響を受けた人々の穢れを祓っていた。
(道具も、正式な詞もない。でも……)
彼は、自らの胸元に触れる。
そこにあるのは、母の形見。かつて偉大なる聖女と讃えられた、エラリスの遺したペンダント。
(……今回も、力を貸してくれ。母さん)
祈りの姿勢をとり、静かに目を閉じた。
戦場の喧騒が遠のき、世界が一瞬だけ静止したかのように感じられた。
「祈りの詞は——」
彼の唇がかすかに動く。そして、思い出したままに、エズレンは最初の言葉を口にした。
「……神の名において、この地に巣くう穢れを祓わん――」
その瞬間、背後からリウィアンとイグナシウスの叫びが轟く。
「エズレン?! 無茶だ!」
「おいやめろ!! お前一人で出来る儀式じゃねぇ!」
けれど、エズレンの耳には届かない。
彼の視線はただ、堕ちた精霊をまっすぐに見据えていた。
「天より来たりし雷光よ、迷いと穢れを裂き断て――」
詞が、空気を震わせ始める。
空がざわめき、風が騒ぎ、大地が軋む。
(……まだ、魔力は残ってる)
「汝を暴くは正義の光、導くは偽りなき姿――」
大気が凍りついた。雷と風が怒涛のように渦を巻き、空が赤く染まり始める。
「偽りを砕きし雷よ、真実を運ぶ風と共に吹き荒べ――」
祈りの詞と共に、彼の身体から微かな光が立ち昇り始める。風が彼の周囲で巻き上がり、その中心に立つエズレンの姿が、まるで別の“何か”に重なって見えた。彼の中で、何かが目覚めるような気配。今だけの、一瞬の奇跡のような感覚。
その時だった。
ふと、エズレンの瞳に金色の光が揺らめいた。
それは炎のように儚く、けれど目を離せないほどに美しい輝きだった。彼の視線は、なおも精霊を見据えたまま微動だにしない。
だが、その目に宿る光が、見る者の胸に確かな畏れを刻んだ。崇高とも、神聖とも違う、説明のつかない“何か”がそこにあった。
まるで、それ自体が祈りの完成を告げる合図であるかのように——
彼の声に、精霊の身体が反応している。まるで、その詞に導かれるように、身を震わせ、悲鳴のような呻き声をあげている。
エズレンは恐怖と不安を抑えるように、ペンダントを強く握りこむ。
(……信じろ、大丈夫だ。…ここにいるのは僕だけじゃない)
雷光が迫る中、彼は胸の奥にある微かな温もりに気づく。
それはまるで、遠い昔に聞いた、誰かの優しい声のようだった。
「――穢れの影に囚われし者、己の真に在る姿を知れ!!」
祈りの詞が終わり空に溶けた瞬間、空の雷光が、まるで応えるかのようにエズレンの周囲へと奔った。
雷霊たちの光が彼の背に集い、空と地を繋ぐ螺旋を描く。その渦は堕ちた精霊の身体を包み込み、黒い瘴気を焼き尽くすように溶かしていく。
渦中から聞こえたのは、風に溶けた一つの声。
《——ありがとう、雷を宿す少年――》
刹那、すべての気配が、凪のように収束した。
風が止み、赤く染まった空が静かにその色を戻していく。雷霊たちの姿も、音もなく霧のように消えていった。
静寂の中、エズレンは一歩、足を踏み出す。
そして——
「……は、っ……」
全身から力が抜けた。
張り詰めていた意識が、ぷつんと糸を切られたように途切れ、エズレンの身体がその場に崩れ落ちた。
「エズレン!!」
駆け寄る仲間の声が、まだ遠くで反響しているように聞こえた。
(もう、大丈夫だ…)
少年の意識はすでに、静かな安らぎの中にあった――




