第23話 揺念に映る黎明
エズレンは、その場に立ち尽くしていた。
『お前なら、奴らを浄化できるんじゃないか?』
イグナシウスの言葉が、何度も頭の中で反響していた。まるで、静けさの中に落ちた小石が、水面を揺らし続けるように。
真っ直ぐで、迷いのない声。
なのに、彼の言葉を聞いた自分は何も返せなかった。返さなくてはと思うのに、うまく言葉にならない。
肯定するには自信が足りない。
否定するには勇気が足りない。
沈黙が続くほど、胸の奥が痛んでいく。
(僕に、本当にできるのか?)
そう問いかけても、返ってくるのは己の不安だけだった。
ゼスのもとで、幾つもの書を読み、あらゆる魔術の仕組みを学んだ。でも、それはあくまで“知っている”というだけだ。実際に“できる”という保証にはならない。
旅を始めて、幾度も思い知らされた。
自分のなかにある力は誰よりも強いはず…なのに、心がいつもそれに追いつかない。
その力に期待され、頼られるたび、応えたいと思う自分と、応えきれなかったらと怯える自分がぶつかり合う。
たった一度の失敗で、多くの人を傷つけるかもしれない――それが怖い。この場にいる誰一人として、巻き込みたくはないのに。
だから、言えなかった。
「任せて」とも、「無理だ」とも。
俯いたまま、何も返せずにいる自分が、みんなの期待を裏切っているようで、ただ苦しかった。
静まり返った空気のなかで、エズレンの心の内だけが揺れていた。
信じてもらえたことが嬉しいはずなのに、信じてもらえたからこそ、それに応えられない自分を、こんなにも責めてしまう。
そうして、まだ少年である彼の心は、強すぎる力と釣り合うために、静かに足掻いていた。
リウィアンが、そっとエズレンの肩に手を置いた。
「エズレン、君にはそれを成すだけの力があるよ」
その声は、まるで風が触れるように優しく、けれど核心を突いていた。慰めではない。ただの励ましでもない。それは、彼が本気でそう信じているという“確信”だった。
――どうして、この人は……
僕よりも、僕のことを信じてくれるんだろう。
問いは浮かぶのに、否定の言葉は出てこなかった。その眼差しの真っ直ぐさが、少しだけエズレンの内に灯をともす。
すると、イグナシウスが静かに立ち上がった。
彼の瞳には、相変わらず揺るぎのない光が宿っていた。
「迷ってる暇はないぜ。エズレン、覚悟を決めろ。自分のことが信じられねぇなら、お前を信じた俺たちを信じろ」
言葉は乱暴に思えるほどストレートだった。
でも、それは誤魔化しのきかない“本音”だった。
――僕を、信じてくれている。
自分の弱さを、躊躇いを、見せたはずなのに。
それでもなお、彼らは“それでもいい”と言ってくれている。その事実が、胸の奥を静かに熱くした。
エズレンは、少しだけ顔を上げた。迷いは完全に消えたわけじゃない。でも、目を逸らしてはいけない、そう思えた。
視線の先には、すでに戦闘の構えを取っている領主の姿があった。
「エズレン。まだ守られるべき年頃の君を頼らねばならない、不甲斐ない私を許してくれ。君にプレッシャーを与えたくは無いのだが…もし、君が我々と共に闘ってくれるというのなら、それが私たちの背中を強く押してくれる。…君はどうしたい?」
静かで、けれど深い響きを持った声。
そこにあったのは、命令ではなかった。
大人として、指揮官として、年若き彼に“選ぶ自由”を与えようとする、真摯な姿勢だった。
――君は、どうしたい?
その問いが、エズレンの心に深く届いた。
強制ではない。ただの期待でもない。
自らの意志でここに立ってほしいと、そう願っていることが、痛いほど伝わってくる。
選ばなければならない。逃げずに。
その時、ふとゼスの言葉が脳裏に浮かんだ。
『力とは、持つ者の在り方を映す鏡だ』
自分の在り方とは、何だろう。
――僕は、僕を頼ってくれた人を、信じてくれた友を、裏切るような人間にはなりたくない。
誰より強い力を持っているというのなら、それをどう使うかを決めるのは自分だ。
そして今、ここで力を使う理由があるとしたら、それは――
「僕に出来ることがあるなら、是非手伝わせてください」
少し声が震えていた。けれど、言葉には迷いがなかった。
決意が、少年の瞳に宿ったその瞬間。
ようやく、エズレンは自分の足で一歩、前へと踏み出した。
◆
それから場は慌ただしく動き始めた。
領主の指揮により、拠点防衛の陣形が素早く整えられていく。戦闘に不慣れな調査隊員たちは最も安全な後方へと下がり、森からの侵攻を想定しながら、騎士たちと調査隊長がまるで円陣を描くように配置され、その中心にエズレンたち四人の姿があった。
イグナシウスとリウィアンは遊撃として、己の感覚を最大限に研ぎ澄ませ、周囲を見渡す。領主は中央に位置して、指揮とエズレンの護衛を担う。いよいよ始まろうとする闘いの場に、じわじわと緊張が張り詰めていく。
エズレンはひとつ深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた。空気に溶けるように魔力を巡らせ、静かに詠唱を始める。
「《――雷を纏い、天を裂く古き力よ。無限の虚空を越え、我が声を聞け。我は汝を識り、汝は我を識る。契約に従い、その姿を現せ――“テンペスタ”、“フルミナ”、“フルミオ”!》」
言葉が大気に溶け込んだその瞬間、空気が一転し、場を支配していた緊張が一瞬にして耳が痛いほどの静寂に変わる。
風が止み、空が震え、天地の理すら黙するような沈黙が訪れた。
そして――閃光が落ちる。
天から雷が三筋、地を貫くように走る。風が逆巻き、大気が軋み、その閃光のなかから雷霊たちが姿を現した。
金紫の雷光を纏うテンペスタ。紫電をその翼に宿すフルミナとフルミオ。三体の姿は異質で、美しく、威厳に満ちていた。
彼らがエズレンの周囲に舞い降りると、空気そのものが変質する。生物の本能が警戒するほどに純粋で圧倒的な力。
その身体から溢れ出す魔素が空を揺らし、辺り一面が淡く輝く。
《《主よ、我らに命を》》
低く重なり響く声に、地に足をつけた者たちの間で次第にざわめきが広がる。
「こ、これが……」
「精霊……本物の……」
「なんと威厳のある……」
敬意とも畏怖ともつかぬ声が漏れる中、最も近くでその姿を目にした領主も、思わず息を呑む。
「……何と美しい…これほどまでに強き気配を感じたのは、生涯初めてだ……」
その言葉に応えるように、雷霊の一体――フルミオがふと、領主へ鋭い視線を向ける。見透かすようにその目を細め、思念の声が脳内に響く。
《お前……使徒の気配が強いな、人間》
言葉には刺すような警戒が滲む。領主はその意図を測りかね、思わず表情を曇らせた。
「(使徒……? 何だ、それは……)」
だが、今からここは戦場。問いを呑み込み、領主は気を引き締めるように背筋を正す。
一方、エズレンは雷霊たちに視線を向け、心の内で静かに語りかけた。
(魔獣が現れたら、まずお前たちで引きつけてくれ。その間に僕が浄化する)
三柱の雷霊は同時に頷き、応える。
《いいだろう。我らが雷霆の刃、しかと刮目せよ》
雷霊たちはそれ以上何も言わず、だがその存在がわずかに前のめりになる。彼らの周囲に漂う雷の粒子が、微細に震え、空気の密度がわずかに増す。
その変化に気づいたのは、ほんの一握りだったかもしれない。けれど確かに、彼らは応じていた。応えることに、悦びすら滲ませながら。
次の瞬間――
大地が揺れた。森の奥から、尋常ならざる圧力とともに魔獣たちが姿を現す。
その巨体は木々を薙ぎ倒しながら現れ、空気を支配するほどの禍々しい魔素の奔流をまとう。
戦端は、ついに開かれようとしていた。




