第22話 残響の只中で
濃密な雷の残響が、森の奥深くまで木霊していた。
静寂に戻りかけた大気を、なおも焼け焦げた匂いが支配する。刻まれた雷の痕跡は空から消え去っていたが、大地にはいまだ熱を孕んだままの亀裂が走り、灰燼と化した魔獣の残骸が辺りに点在している。
「……今のは、一体……」
領主が呆然と声を漏らした。手にしていた剣が、気の抜けたようにだらりと下がる。
焦げ跡に目を奪われたまま、動けずにいた。
「落ち着いて。今の雷は敵じゃない。…もう、居ないけど」
答えたのはリウィアン。
淡く光を宿す瞳が、なおも空の一点を見据えていた。まるで、そこにまだ何かの気配が残っているかのように。
その声には静けさがあったが、芯に潜む緊張は明らかだった。
一拍。風が木々を揺らし、焦げた枝葉の破片がぱらりと落ちる。
その中で、エズレンが一歩、前へと足を運んだ。
(今なら……)
危機は過ぎ去った。そう思えたからこそ、彼は心に引っかかっていた疑問を、ようやく口にする決意を固めたのだ。
ずっと気になっていた、しかし緊迫した状況では問うことすら憚られた。だが、今なら答えを聞ける――そう思って。
空気を読むように、慎重に。そして、意を決したように口を開く。
「……リウィアン。その……“堕ちた守護者”と“堕ちた精霊”って、何か関係が――」
言葉の途中。
リウィアンの指先が、白くしなやかにエズレンの眉間を突いた。
「此処では話せない」
低く、抑えられた声。だが、その圧は空気を震わせるほど強い。
その瞳がふいに周囲の森へと鋭く向けられた。刹那、何かが走り抜けたような感覚が、辺りの温度を下げる。
「奴らは、自分の存在を認識された瞬間に動き出す。…この場で多くに語るのは、危険すぎる」
静まり返る空間に、冷気のような緊張が染み込んでいく。その言葉に調査隊員や騎士たちは息を潜め、言葉もなく立ち尽くす。
エズレンは眉間に残る感触を指先でそっとなぞった。
(聞いてはいけない話だったのか……でも)
あの一瞬、リウィアンの指先に込められたのは拒絶ではなく、警告だった。
だからこそ、わずかに広がった不安と同時に、それを信じたいという想いが、静かに根を張っていく。
その中で、イグナシウスがわざとらしく舌打ちし、肩をすくめた。
「……やっぱ視てるな」
「イグも気づいた?」
リウィアンが振り返ると、彼は鼻をしかめて応える。
「瘴気の匂いが濃すぎるんだよ。あれは隠す気ねぇだろ。タイミング的にも、狙ってきたに決まってる」
「……やっぱり、そうだよね」
二人の視線が、混乱の色を隠せずにいる領主へと向かう。なおも状況を掴みきれないままの彼は、眉を深く寄せ、声を荒げた。
「待て、君たちだけで話を進めるな。――つまり、この地を襲ったのは、私を狙ってのことか?」
「……貴方が、ここへ来るよう仕向けられた可能性もある」
リウィアンの声音は淡々としていたが、その言葉には揺るがぬ確信が滲んでいた。
「元凶は、まだこの地に潜んでいる。多分、まだ目的を果たしていないから」
「目的……だと?」
領主の視線が鋭さを増す。だが、それにも臆することなく、イグナシウスが肩を揺らしながら応じた。その視線はふと、領主の左手へと落ちる。
指先に嵌められた古めかしい指輪が目を引いた。金でも銀でもない、どこか虹色にきらめく金属で形作られ、その中央には星霧を封じ込めたような石がはめ込まれている。光の加減で色を変え、まるで内側に命が宿っているかのような――
「…その指輪、妙な気配がするな。特に石の――」
「……っ!」
領主の口から言葉が漏れかけ、すぐに詰まった。一瞬、反論しようとしたのか、それとも隠し通せないと悟ったのか。
「……場所を変えるぞ」
その声には、もはや否定の余地はなかった。
◆
天幕の中は、焚き火の灯りすら遠く、静まり返っていた。
布越しに差し込む薄明かりが、揺れる影を織りなし、重苦しい空気の中に四人の影を浮かび上がらせる。
天幕の外では、騎士たちが警戒の陣を敷いている。領主の副官の指示により、調査隊も各々の拠点へと移動していた。彼らには、この場で行われる密やかな対話の内容など知る由もない。
「……さて、時間が惜しい。手短に情報を共有してもらおうか」
領主の声は落ち着いていたが、その底には怒気と焦燥が滲んでいた。
「俺らから話せって? 隠し事が多いのはお互い様だろ」
イグナシウスが気怠げに返す。腕を組み、相手を値踏みするような目つき。
その隣で、リウィアンはひとつ息を吐き、まっすぐに領主の瞳を見据えた。
「聞いた瞬間から、貴方には危険が付き纏う。それでも、真実を知る覚悟はありますか?」
その声音には、問いかけの形をとりながらも、ほとんど“選択肢”など存在しないことを告げるような、冷ややかな圧が宿っていた。
(……僕は、この場にいていいのだろうか)
エズレンは心の内に生じた疑念を呑み込み、ただ静かに息を潜める。目の前で交わされる言葉の一つ一つが、世界の深層を覗き見るような重さを孕んでいることを、彼は感じ取っていた。
そんな中、領主はわずかに姿勢を正し、語り始めた。
「我々は長年この地において、魔族の侵攻を退けてきた。アルヴェナ大陸の最前線としての誇りと責務、その重みは理解しているつもりだ。今さら背負う危険がひとつふたつ増えたところで、何も変わらん。それに――」
彼は一度言葉を切ると、金色の瞳に静かな意志を灯し、凛とした声で続けた。
「先刻、我が身を狙われたというのに、“それ”の姿すら捉えられなかった。この状況にあって、自らを無関係と評することなど、出来はしない――私は当事者だ。ならば、知る責任がある」
その眼差しは、静かなる威風を纏った獅子のようだった。吠えることなくして支配する――そんな王の沈黙を思わせる威圧が、空気を震わせる。圧倒的な気魄に、常人ならばひれ伏すしかない――しかし
「……なるほど、悪くないね」
リウィアンは微笑を含んだ声でそう言った。
その表情は、まるで下界の覚悟に“合格”を与える天上の存在のようで――僅かに温度を持ちながらも、どこか遠かった。
「ま、一応仕事だしな。何話すかはリウが決めろ」
イグナシウスが全てを任せるように言い放つ。
無造作に腰を落とし、長い脚をゆるやかに組む。その仕草は無頓着でいて艶やかで、まるで絵画の一幕のようだった。
(貴族に対する態度じゃない…)
エズレンの胸の奥はざわついていた。二人の領主に対する無礼とも取れる振る舞いに、咄嗟に息が詰まる。
けれど、領主本人にそれを咎める様子はない。
「まず、一連の異変についてだ。元凶は、精霊達が我々へ向けた怒り…なのか?」
領主の問いに、リウィアンは指を組み、少しだけ考えてから口を開いた。
「半分正解、半分はハズレ。――あれらは、もともと精霊だった」
「……“だった”?」
リウィアンは軽く息を吐いた。語るべきことを淡々と整理するように、一拍の間を置く。
「詳細は省くけど、今はもう精霊とは呼べない。あれは本能的に魔素を必要としている。この世界に留まるためには、膨大な魔素を吸い続けなければならないから」
天幕内の空気が、また一段と冷えた気がした。
エズレンと領主が息をのむ中、リウィアンは視線を領主の左手へと向ける。
「領主様を狙った理由は、恐らくその指輪。着けてる所を見たのが初めてだから、すぐ気づかなかった。それ、何かの“礎”になってるみたいだ。かなりの年代物で、相当の魔素を含んでるように見えるね」
「……目眩しの術がかかっているというのに、まさか見抜くとはな」
領主は唸るように言った。
「これは初代当主から代々、我が家に受け継がれてきたものだ。“これを失えば、未曾有の災いが訪れる”――そう伝えられている。だが、それが何を守っているのかは……私にも分からない」
重々しい言葉の余韻が空間に染み渡り、誰も軽々しく口を挟めなくなる。
静まり返った室内に、ほんの僅かに空気の揺らぎが生まれたのは、リウィアンがふと何かを呟いたからだった。
「…なるほど、祝福の気配に馴染みすぎて、感覚が鈍ってたんだ。普通の精霊じゃ近づけもしないはずだ」
誰に向けたでもない、独り言のような声。
だが、それがかえって不気味だった。まるで答えを知っている者の、確信に満ちたつぶやき――。
「おいリウ、何ぶつぶつ言ってんだよ」
イグナシウスの声が遮るように響く。気の抜けたやり取りにすら見えるそのやりとりに、場の空気がわずかに緩んだ。
「え?ああ、ごめん。この話は後にしよう」
リウィアンが肩をすくめる。だが、彼の目に浮かぶのは余裕すら感じさせる光。
対照的に、場を掌握しようとする領主のまなざしには、張り詰めた鋼のような緊迫が滲んでいた。
時間を惜しむ者の静かな怒気が、無言のうちに二人へと向けられる。
「……“奴ら”への対処法は?」
低く、押し殺した声。
空気がぴんと張り詰める。
リウィアンは迷いなく、短く応じる。
「――ある」
そう言った彼の視線が、まっすぐにエズレンへと向けられた。
「魔素の濃い場所には、奴らが自然と集まる。その性質を利用すれば、誘き出すのは難しくない」
続いて、イグナシウスが一歩、前に出る。
「俺とリウは、似たような奴らとは何度もやり合ってる――が、」
言いながら、イグナシウスはわずかに笑い、続けた。
「俺らの得意属性じゃ、奴らを完全に浄化するのに向いてない。……おい、エズレン」
その名が呼ばれ、エズレンははっとして顔を上げた。
「お前なら、奴らを浄化できるんじゃないか?」
その言葉は、まるで運命の歯車が動き出したような響きを持って、天幕の中の空気を決定的に変えた。




