第21話 暁鐘の使徒
イストリア領、最南端。
岩混じりの斜面を縫うように続く小道を、エズレンたちは追加の派遣隊一団と共に進んでいた。馬車の揺れはさほどでもないが、空気は重く、口を開く者も少ない。
「二日前、最後に被害報告があったのがこの先の廃村です」
車輪の軋む音に紛れて、斥候役の隊員が声を落とした。
「人的被害はありませんが、現場の状況があまりに不可解で……通常の自然災害とも、魔物の襲撃とも判断がつかず、領主様から貴方々へと正式な依頼が下りました」
ちらりと、隊員の視線がエズレンたちへ向けられる。
「……正直、本当に子供を連れてくるとは思いませんでしたが……」
続く言葉はなかった。ただ、目の奥に宿る複雑な色が、彼の胸中を物語っている。
「まあ、領主様の命令とあらば従います。実際、前線が欲してるのは“外部の視点”ですから」
別の年嵩の隊員がそう補ったが、その声には妙な温度があった。迎え入れる者、訝しむ者、哀れむ者。それぞれが三人に注ぐ目は違い、しかし共通していたのは、皆が現場を見た者たちだということだった。
やがて木々が開け、簡易に組まれた天幕が点在する調査拠点が視界に入った。消えかけた煙が空に溶けていく。空気の匂いが変わった。焦げと湿り気と、言葉にできない“何か”が鼻腔を刺す。
拠点の中央には、地図を広げた隊長格の男がいた。年齢は四十代半ばほど、無精髭とくたびれた外套が、長く現場にいることを示している。
三人が簡潔に名乗りを上げ、領主からの直々の依頼で派遣された旨を伝えると、男はほんのわずかに目を見開き、すぐに表情を引き締めた。
「お疲れのところ申し訳ない。早速だが、現在までの状況を説明しよう」
彼は視線を逸らさず、三人に向かって言った。
「被害は村ひとつにとどまったが、問題はその原因。人為的な痕跡は一切なく、術式の残滓も、魔術による崩壊の形跡もない。かといって風害や地滑りとも異なる。……一見自然の力に見えて、しかしその理から外れている」
地図上ではこの村の位置が黒く塗り潰され、その周囲に赤い印が点々と浮かんでいた。
「この赤い印、何を示してるんですか?」
エズレンが、地図を覗き込みながら静かに尋ねる。
「それは魔素濃度の計測結果だ。異常な数値を示した地点を記録している」
隊長は指先で赤い印をなぞるようにしながら答えた。
「この辺りでは、ここ数年、魔物の出没報告はない。それなのに……この密度は異常だ」
「自然災害では、まず起こり得ない現象だね」
リウィアンの声は淡々としていたが、その瞳には深い警戒の色が宿っている。
「ああ。我々の仮説では、“精霊災害”の可能性を視野に入れている。だが、確証はない。……これだけの規模で、精霊が足跡を残さず消えるなど…これもまた、ありえない話だ」
場に沈黙が落ちた。
エズレンはただ、真剣な面持ちで言葉を聞いていた。イグナシウスも口を挟まず、どこか楽しげな興味をその瞳の奥に隠しながら、地図を見つめている。
隣で、リウィアンだけが僅かに目を伏せた。
誰にもわからないほどの微かな違和感が、彼の感覚に確かに触れていた。
◆
実地調査のため、エズレンたちは被害の中心地へと足を踏み入れた。
焼け落ちた家屋。砕けた井戸の縁。土の上で黒ずんだまま萎れた草木。そして鼻腔を刺す、夥しい数の動物の死臭――まるでこの地そのものが、何かに深く傷つけられ、拒絶の声を上げたかのようだった。
「ここは何十年も前に廃村となっていますが、もう少し先に小さな集落がありまして。発見者はその集落の住人で、薬草を採りに来たところ、この有様だったと」
案内役の調査隊員が、眉間に皺を寄せながら口を開いた。
「一見すると魔獣に襲われたようにも見えますが……倒れている動物の亡骸には、どれも外傷が確認できません」
その声を聞きながら、エズレンは静かに跪き、地面にそっと手を添えた。
微かな――本当に微かな、魔素の残滓。それは自身の内に感じるものとはまるで違う、異質な感覚。だが確かに、この場に“何か”が存在した証。
わずかな感触だけで、肌の内側がひやりと凍る。ぞわり、と背中をなぞる得体の知れない気配。
「な、何だこれ…」
思わず洩れた声が震えるのを、自覚しながらも止められなかった。
「これは普通の精霊じゃないね」
リウィアンがすぐ横で呟く。その声音は淡々としているが、沈黙の中にひそむ重みが違っていた。
イグナシウスが目を細める。
「何か分かったのか?」
「……これは、堕ちた精霊の仕業だね」
視線は遠くに。声は低く。リウィアンの表情から、いつもの柔らかさが消えていた。
「…間違いない。あれの気配と同じだ」
その言葉に、イグナシウスの頬がわずかに緩む。顎に手を当て、愉しげに目を細めた。
「つまり俺の獲物だな?ここまで来た甲斐があった。悪くない相手だ」
「……イグ、悪い癖が出てるよ。まあ、そういうと思ってたけど」
リウィアンの声は呆れ半分、諦め半分。だがその下にある緊張を、エズレンは感じ取った。
(“堕ちた精霊”…二人と初めて出会ったときも、そう言っていた)
異様な姿に変じた魔獣。常識では測れぬ力。あの時はその正体を理解する余裕もなく、目の前の恐怖に呑まれるしかなかった。
だが、今は違う。存在の輪郭を、薄ぼんやりとだが掴みかけている。
――それでも、聞く勇気が出なかった。
調査隊に聞こえないように声を落としていた二人の気遣いを思うと、自分が軽々しく踏み込んでいい話ではない気がした。
「エズレン?」
思考の渦に沈みかけたその時、肩を軽く叩かれる。
「どうしたの?隊長さんに報告しに行こう」
「……あぁ、分かった」
小さく頷いたエズレンをよそに、リウィアンは一歩前に出る。穏やかな声色とは裏腹に、その表情に普段の柔らかさはない。
「隊長さん、今すぐ領主様に伝令を飛ばして欲しいんだけど」
ぴたりと、隊長の動きが止まる。
「…何か分かったのか」
その問いに、リウィアンは瞬きもせず応じる。
「まあ、そうなんだけど…報告は直接、依頼主にしたいんだよね。その時は、隊長さんも立ち会ってくれると助かるな」
沈黙が一拍。隊長は目を細め、短く息を吐いた。
「……良いだろう。内容は?」
「“今すぐこちらにお越しください”でいいかな」
言葉が落ちた瞬間、隊長の眉がぴくりと動く。
「いいわけないだろう!」
張り詰めた声が、重く場に響いた。
だがリウィアンはその圧に揺るがず、静かに言葉を続ける。
「最重要案件、機密情報、極秘調査結果、何でもいい。とにかく、早く会って話がしたい」
「相手は領主様だぞ……!」
隊長の声には、抑えきれぬ焦りと躊躇が滲んでいた。唇の端をかすかに引き結び、まるで言葉を呑み込むようにして吐き出す。
だが、それを受けたリウィアンの表情は変わらない。
相手が辺境伯家当主であると知っていてなお、一切の動揺を見せないその姿――彼が伝えようとしている情報の重みに、嫌でも想像を及ばせる。
やがて、隊長は一つ深く息を吐くと、背後に控えていた副官へ視線を送った。
「……風の書簡を用意しろ。至急、領主邸まで飛ばす」
副官は無言で頷き、腰に下げていた封筒型の魔道具を開く。中から薄い羊皮紙と、細工の施された風晶石を取り出す。
風晶石が淡く光り、指先で触れた瞬間、宙に浮かぶ紙面に文字が浮かび上がっていく――魔力による筆記である。
そこにリウィアンの言葉をもとに、内容が素早く書き記される。
「宛先、領主邸第二塔。封緘語、……“最重要案件”」
副官が口にした途端、風晶石が軽く震え、羊皮紙を包むように風が巻き起こる。次の瞬間、それは一陣の風となって空へと駆けた。
空高く、雲を裂くように飛んでいく。あれこそが、権力者の間で最も速く、最も確実に意志を届ける手段として重用されている――風魔術による伝令、通称“飛信”。
沈黙が戻った野営地に、誰ともなく深い息が漏れる。
――そして20分程経った頃。空から降るようにして、同じ書簡が地に舞い降りた。副官がすぐさまそれを拾い上げ、中身を確認する。
「報告致します!領主様は既に出立済みとのこと!到着予定は、これより二時間以内!」
「流石に判断が早いな。助かる」
言葉とは裏腹に、隊長の眉間にはわずかな皺が寄っていた。
領主自らが動くということは、あちらも事態の異常性を感じ取っているという証左だ。
その予告の通り――さらに二時間後。
土埃を巻き上げる蹄の音と共に、数騎の影が現れた。
その先頭に立つのは、銀の刺繍が施された軍装の男。黒緋の髪を靡かせ、鋭い金の眼差しで辺りを冷静に見渡す――レオネル・フォン・イストリアその人である。
彼の後ろには、彼に忠誠を誓う数名の騎士たちが馬を駆る姿があった。一行が到着し、拠点に入ろうとした——その刹那。
「伏せろ!」
イグナシウスの怒号と同時に、森の奥から獣のうねりが奔った。
黒き瘴気を纏い、無数の魔物が蠢き出る。まるでこの瞬間を狙っていたかのような、計算された襲撃。
「領主様を守れ!」
調査隊が即座に動き、壁となって応戦する。しかし全ては防ぎきれず、一体の魔物が領主へと肉迫する。
凶悪な爪が振り上げられた、その瞬間。
——空が裂けた。
雷鳴と共に天地を貫く稲光。
濁流のごとく落ちた雷光が、魔物の身体を焼き貫いた。黒煙をあげて倒れ伏す異形の影。
「今の……お前か?」
イグナシウスがエズレンを振り返る。
だが、エズレンは静かに首を横に振った。
「違う…僕じゃない」
雷霊の気配もない。
しかし雷はさらに数体の魔物を貫き、まるでこちらを守るように降り注ぐ。
その中で、ただ一人、リウィアンだけが“それ”を見ていた。
稲光の狭間に浮かび上がる、神々しき影。
流れる銀の髪は絹糸のようで、光を纏い、背には四対の翼が広がっていた。
中性的で儚げながらも、雷を体現しているかのような威厳を帯びている。
その瞳が見つめていたのは——動揺を見せながらも、冷静に部下へと指示を出す、領主の姿。
“それ”は静かに視線を注いでいた。
『借りは、返したぞ』
その声は雷鳴にかき消され、領主の耳に届くことはなかった。
だが、リウィアンの耳には確かに響いた。澄んだ鈴音のような、言霊の残響。
雷光と共に魔物たちの気配が消えてゆき、最後の閃光の中にその姿もまた、静かに光の粒となって消えていく。その時、領主の指輪が最後の光を眩く反射していた。
「なるほど、個人的な縁か。……本当に気まぐれで、義理堅い系譜だね」
姿が消えたあとも、その気配の余韻を感じながらリウィアンがぽつりと呟いた。
「何かいたのか?」
イグナシウスが問いかける。
「うん。まあ、後で話すよ」
リウィアンは遠くを見つめたまま答えた。
その瞳は、まるで過去と未来の狭間を見据えるように静かだった。




