第20話 薄暮の誓い
宿の食堂にて。
窓から差し込む柔らかな陽光が、木製のテーブルにまだ湯気を立てる朝食の影を落としていた。
席に着いた三人の前には、焼きたての黒パンと卵のスープ、そしてこんがり焼かれたハーブソーセージが一皿ずつ並んでいる。
香ばしい匂いに鼻をくすぐられながらも、エズレンは帳面を見て、小さくため息をついた。
「……やっぱり、ギリギリだ…」
「何がだよ」
黒パンにソーセージを挟んで豪快に齧っているイグナシウスが、気の抜けた声で返す。肉汁がパンにじんわり染み込み、食欲をそそる匂いが立ち上る。
「ゼスが旅立ちの時に持たせてくれたお金……ここにいる間の宿代や食費でほとんど残ってない。アルヴェーアまで、まだ先が長いのに……」
「旅ってのは、金と時間を飲み込むからな。財布が軽いのは、旅人の勲章みたいなもんだ」
どこか楽しげなイグナシウスの口調に、エズレンは帳面から目を上げて、ふと眉をひそめた。
「でもイグナシウスもリウィアンも市場ではいろいろ買ってただろ?どうやって路銀を稼いでるんだ?」
「……う」
ソーセージを咀嚼していたイグナシウスが、珍しく言葉に詰まる。
リウィアンもスープをすくっていた手を止め、どこか気まずげに肩をすくめる。
「僕らも別に潤沢ってわけじゃないよ。人が多い街に着いたら、日雇いの仕事を探して、小遣い稼ぎをしてるんだ」
「……それ、合法の範囲内?」
口に出した瞬間、しまった、と思う。
けれど、隣にいるのは宵闇を象ったような誘惑的な美青年と、見る者の時を止めるような中性的な美貌の持ち主。
人目を惹きすぎる二人の「小遣い稼ぎ」が、平和的なものかどうか……一抹の不安が残るのは当然だった。
「……いや、まぁ、大体は?」
「その“大体”が不安なんだけど…」
誤魔化すように目を逸らすイグナシウスに、エズレンは渋い顔を向けた。
「たとえばさ、この朝食一つ取っても、一人につき銀貨三枚くらいだろ?」
「それがどうしたんだよ。美味いんだから、いいだろ」
「うん、美味しいよ。美味しいけど……この調子でいったら、あと何食分で破産するかなって考えたら、さすがに怖くなる」
「現実的ぃ……」
イグナシウスがぼやいたその時だった。
宿の扉が勢いよく開かれ、甲冑の擦れる音と共に、一人の兵士が真っ直ぐこちらへと歩み寄ってきた。
「エズレン殿、ならびにお連れの方々。イストリア領領主、レオネル・フォン・イストリア閣下より、お招きがございます」
三人は顔を見合わせた。
エズレンが帳面をそっと閉じ、ソーセージをひと口齧りながら、ぽつりと呟く。
「……まさか、これも日雇いの一種?」
すると、隣にいたリウィアンが静かに微笑んで返した。
「だったら最高だね」
その笑みはまるで、これから向かう先がどんな場所であっても構わない、とでも言うようだった――
◆
領主館の門が静かに開かれ、三人を乗せた馬車が石畳を滑るように進む。
見えてきたのは、まるで神殿のような壮麗な館だった。
広大な庭園には季節の花々が整然と咲き誇り、噴水の水音が微かに響く。
玄関前に敷かれた真紅の絨毯、その先にそびえる白亜の門扉は、精緻な雷光の紋様で縁取られている。
馬車を降り、案内に従って館内に足を踏み入れた瞬間、エズレンの呼吸が止まった。
天井は吹き抜けのドーム型で、黄金の装飾が陽光を反射して淡く輝く。
壁面には一面に飾られたタペストリーや彫刻が連なり、足元に広がる絨毯はまるで夜空を織り上げたような深い藍色。
「……凄い……」
知らずに洩れた声に、エズレン自身も驚いた。
視線が天井、壁、床と落ち着かずに彷徨い続ける。まるで夢の中にいるようだった。
イグナシウスは飾り棚の装飾を眺めながら、飄々と呟く。
「これ、売ったらそこそこするよな……仕上げも悪くないし。家財だけで軽く城一つ建つぞ、こりゃ」
その傍らで、リウィアンの足がふと止まった。
静かに顔を上げ、館の奥――光と影の境界、誰も目を向けぬ梁の上へと視線を這わせる。
一瞬だけ、空気が震えた気がした。埃一つない空間の中に、ふと射し込んだ風が、リウィアンの髪をわずかに揺らす。
視線を壁に刻まれた雷光の紋章へと移しながら、彼は淡く微笑んだ。
「この家にはアストラグス様を連想させる意匠が多いね。代々、雷神を信仰してきたというのは本当らしい」
「……そうなのか」
エズレンは頷きながら、静かに周囲を見回す。雷光を象った装飾、天井を飾る渦巻く雲の彫刻。何かを探しているわけではない。ただ、なぜか、自然と導かれるような――そんな感覚があった。
そこに何があるのか、自分でも理由はわからないまま。
リウィアンはそんなエズレンの動きを目の端で見届けながら、ふと歩を緩めた。
数歩遅れて立ち止まり、先ほどから視線を向けていた梁の上――誰にも気づかれていない場所へと、再び目を向ける。
そして、ごくわずかに口元を緩め、誰にも届かぬような声で呟いた。
「……長年この家の者に信仰されているからか……姿くらい見せてやればいいものを。本当に気まぐれな系譜だ」
その瞬間、どこかで風鈴のような澄んだ音が聞こえた気がしたが、それはすぐに静寂に溶けて消えていた――
◆
やがて案内人に先導され、重厚な扉の奥へと三人は通された。
執務室の奥、夕陽を背にした男がゆっくりと振り返る。短く整えられた赤褐色の髪、深い金の眼差し。その容貌は前に会ったときと変わらず、鋼のような静けさを纏っている。ただ今回は、以前は感じられなかった、内に燃える焦燥のようなものが垣間見えた。
「遠路ご苦労だった。座ってくれ。……早速だが、話したいことがある」
威圧することなく、だが確かに重みを持つ声音。イグナシウスの目が僅かに光り、リウィアンも黙って頷いた。エズレンも居住まいを正し、三人は椅子に腰掛ける。
「近頃、領内各地で不可解な現象が頻発している。突発的な気候の崩れ、家畜や動物たちの狂騒、そして……人の意識に影響を与える幻覚や、一時的な記憶の欠落」
エズレンの背筋がぴくりと動く。そこには、ただの自然災害では片づけられない異質さがあった。
「これらの現象には共通点がある。どれも、何か『見えざる存在』による干渉を受けているとしか思えない……我々は、これを『精霊災害』と見ている」
「……精霊、ですか」
エズレンの声は、わずかに震えた。精霊とは人間と同じ善悪の枠を持たず、気まぐれにして強大な存在。その接触が災厄と化すことも少なくない。
「君たちのことをどこで聞きつけたのか、一部の者たちが騒いでいてな。……だが私は、君たちがこの騒動の原因だと決めつけるつもりはない。ただ真実を明かし、事態を収束させるため、調査に協力してほしい」
「…でも、どうして僕たちに?」
その言葉に、領主は視線を三人に滑らせた。沈黙の中で、僅かに口角が上がる。
「まず、君たちが我々と協力する姿を見せることで、余計な噂を抑えられる。そして君たちは今後、アルヴェーアへ向かうんだろう? そろそろ路銀も心許なくなってきている頃じゃないか?」
「……っ」
的確すぎる言葉に、エズレンは小さく肩を強張らせた。
「観察眼が鋭いな」イグナシウスが低く呟き、リウィアンも「なるほどね」と感心したように囁く。
領主は続ける。
「……我々の手では、もう追えない。訓練を積んだ兵士ですら、現象に巻き込まれた者は錯乱や妄言に苛まれ、時に自我すら保てなくなる。これ以上、一般の者たちを巻き込むわけにはいかないのだ」
声が静かに落ちる。部屋の温度すら変わったような錯覚が走った。
「だからこそ、“見える可能性”を持つ者に頼らねばならなかった」
一拍、言葉を区切る。続く言葉には、重い事実が込められていた。
「……正直に言おう。君たちに目をつけた者の中には、“元凶がそこにいるのでは”と疑う者もいる」
イグナシウスの眉がわずかに動き、リウィアンはそっと目を伏せた。だが二人とも、それ以上何も言わなかった。
「だが――先ほども言った通り、私はそうは思っていない」
領主の視線が、エズレンに向けられる。鋭くも揺るぎない光が宿っていた。
「君がこの異変の中心にあるのは、原因としてではなく、解決者としてだと考えている。精霊に好かれる稀有な存在である君に……いや、君たち三人に、私は賭けたい」
言葉の端に滲む焦燥。感情を抑えながらも、どこか切実さが滲んでいた。
「……本来なら、君たちのような部外者を巻き込むべきではないと分かっている。だが、情けない話だが――もはや、他に選択肢がない」
深く息を吐き、領主は静かに三人へ向き直った。
「どうだ? この任を引き受けてくれれば、報酬は十分に用意しよう。君たちにとっても、悪くない条件だと思うが」
沈黙が落ちた。
エズレンはふと隣のイグナシウスを見た。彼は唇の端をわずかに上げ、面白がっているような、けれど拒む気配はなかった。リウィアンも静かに目を伏せ、思慮深げに頷く。
――それを確認し、エズレンは深く息を吐いた。
「…僕たちがどこまでお力になれるかは分かりませんが、お引き受けします」
その言葉に、領主は満足げに目を細めた。
「すまない。協力に感謝する」
淡く、しかし確かに光るものがその瞳の奥にあった。それは――理性の皮を被った、祈りにも似た憧憬だった――
◆
館を出て、まだ少し熱の残る石畳を三人で歩く。
「……“路銀が心許なくなってきている頃”って言われたの、けっこう効いたな……」
ぽつりとこぼしたエズレンの声に、イグナシウスが堪えきれず吹き出した。
「ははっ、マジでな! ああいうの、俺ちょっと好きだわ。お前、完全に図星だったし」
肩を組まれ、むっとしながらも言い返せないエズレンに、リウィアンが微笑を浮かべる。
「仕事が“精霊災害の調査”っていうのが、普通じゃないけどね」
空を見上げる彼の横顔に、橙が柔らかく差していた。
「精霊災害、か……」
エズレンは足を止め、ゆっくりと胸元に手を添える。
――恐れがないと言えば嘘になる。けれど、不思議と怖くはなかった。
領主の真っ直ぐな眼差しを思い出す。
隣を歩く二人の、揺るぎない存在を感じる。
この世界に踏み出して、初めて目の前に現れた“頼られる理由”。
まだ何も分からない。けれど、歩いていける気がした。
気づけば、ほんの少しだけ口元が綻んでいた。
沈みゆく陽に包まれて、三つの影が寄り添うように延びていく。
その先には、まだ見ぬ出会いと答えが待っている――




