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雷の子は、空を識る  作者: かつお武士
第1章 旅立ち
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第19話 朧に灯る

朝露に濡れた石畳が、微かな光を滲ませていた。イストリアの朝は静寂に包まれているが、その静けさはどこか瑞々しい息吹を含んでいた。遠くから聞こえる鳥のさえずりが、新しい一日の訪れを優しく告げている。


三人の旅人は、朝の冷気を身にまといながらゆっくりと歩を進めていた。


領主に紹介された時計職人の工房は、街の北端の細い路地にひっそりと建っていた。風雪に耐えてきた石造りの壁と、装飾のない堅牢な扉が、長年の時を語るように静かに佇んでいる。イグナシウスが扉を軽く叩くと、ほどなくして中から、無骨な風貌の老職人が顔を出した。


「……なんだ。うちはそこらのガラクタ直しじゃねぇぞ」


開口一番の一言に、リウィアンはふと微笑む。まるで、その言葉を待っていたかのように。


「そう、なら良かった」


そう言って、彼は静かに懐からそれを取り出した。


手のひらに包まれて現れたのは、一つの懐中時計。銀色の本体はわずかに青味を帯び、朝の光を受けて淡く輝いていた。蓋には風を思わせる優雅な曲線と、羽根を模した繊細な彫刻がほどこされ、中心には星のように淡く光を宿す宝石が嵌めこまれている。光の角度によってその色は変わり、紫から水色、そして無色透明へと、まるで風に揺れる光そのもののように移ろっていく。


リウィアンの瞳は、懐中時計を見つめるとき、普段の穏やかさを超えて、深く慈しみに満ちた光を宿していた。彼の白い指が静かに蓋を開く。その仕草は、まるで何か神聖なものを解き放つ儀式のようだった。


内部に現れたのは、見たこともない精巧な機構。数えきれないほどの歯車と微細な線状の部品が、まるで天の文様のように緻密に組み込まれていた。だがその針は、ぴたりと静止したまま、時を刻んではいなかった。


「これは……!お前さん、こいつをどこで手に入れた?」


老職人の声が低く震える。目を細め、機構に視線を落とすと、その顔に深い驚愕と敬意が浮かんだ。指先で慎重に意匠をなぞり、内部構造に目を凝らす。


「こんな構造、見たことがねぇ……こいつは、創られた“もの”じゃない。……まるで授けられた“奇跡”だ」

「ありがとう。これは、僕の一番大切な人から貰ったものなんだ」


リウィアンの静かな声に、老職人はしばし黙し、再び時計に目を落とす。その神造を思わせる機構からは、途方もない精度と、何よりも――大切に扱われてきた気配を放っていた。


埃ひとつない表面、触れた指に残る微かな温もり、蓋の留め金に残るごく薄い磨耗の跡。何十回、何百回と開かれ、けれど一度として粗雑に扱われた痕跡のないそれを見て、老職人の顔つきが変わる。


これは、心からの信頼を背負ってきた道具だ。だからこそ、適当な仕事は許されない。


「……いいだろう。三日は預かるぞ」


その言葉には、職人としての誇りと覚悟が宿っていた。


「うん。よろしくね」


リウィアンは静かにうなずき、時計をそっと預ける。その瞳には、不安ではなく、深い安堵が浮かんでいた。老職人の手に、この想いを託すことができる――そう確信したのだ。


工房を後にする彼の横顔には、儚くも揺るがぬ祈りのような想いが滲んでいた。





市場は朝から活気に満ちていた。街の中心部に広がる広場には、色鮮やかな果物、織り目の細かな布地、異国の香辛料が所狭しと並べられ、風がそれらの香りを混ぜて運んでいく。賑やかな声、笑い声、品定めする音が交錯し、陽の光とともにきらきらと市場を満たしていた。


「これ、なかなかいけるな」


イグナシウスが瓶をひとつ掲げる。中には、蜜に漬け込まれた果実がとろりと揺れていた。彼は指先で瓶の口を拭い、唇についた蜜を舐めとる。毒々しいまでに赤い舌がちらりと覗いたその瞬間、通り過ぎる人々の目が、蠱惑的な彼の笑みに次々と吸い寄せられていた。


「……それ、わざとか?」

「は?何の話だよ」


瓶を揺らしながら笑うイグナシウス。すっかり観光気分のその様子に、エズレンは小さく息をついた。


その隣では、リウィアンが露店に並んだ風変わりな装飾品を手に取っていた。真鍮の細工に小さな羽根と歯車があしらわれたペンダント。控えめだが、不思議な存在感がある。


「これ、色違いで揃いはある?」


静かに問いかける声は、忙しなく立ち回る店主の足を止めさせた。金色の光に透けるような髪が頬にかかり、それを耳にかける仕草がふと周囲の喧騒から浮き立つ。まるでリウィアンの周囲にだけ、時間が流れているようだった。


(視線……集まってるのは、僕じゃなくて、あの二人か)


エズレンはそっと足を止めた。ふと目に入ったのは、道ばたで遊ぶ三人の子どもたち。石で描いた陣の周りを囲み、じゃれ合いながら笑い合っている。何気ない、けれどどこか心を引く光景だった。


──どうして。


胸の奥に、ぽつりと小さな問いが浮かぶ。

二人は、僕のことを何も知らない。過去も、正体も、目的も。

なのに隣を歩いてくれている。

笑ってくれる。声をかけてくれる。


(……理由が、あるんだろうか)


戸惑いが胸をくすぐった。その感情に、どう向き合えばいいのか分からない。ずっと一人でいたわけじゃない。だけど、誰かと共に在ることに、こうして戸惑ったのは初めてだった。


「エズレン?」


名を呼ばれ、はっとして顔を上げる。リウィアンがそっとこちらを見ていた。陽の中で浮かぶような眼差し。問い詰めるでも、追いかけるでもない、ただ“ここにいる”というだけの眼差しだった。


「……なんでもない」

「おーい、こっち来いって!」


少し離れたところでイグナシウスが大きく手を振る。先程買っていた瓶を片手に、得意げな笑顔。その無邪気さに、肩の力が少しだけ抜けた。


──答えを出すのは、もう少しあとでいい。


歩き出すと、リウィアンも静かに足を揃える。三人の影が陽射しの中で交わり、またゆっくりと揺れながら進んでいく。





夕暮れどき、三人が訪れたのは、領主が紹介してくれた一軒の料理店だった。店構えは控えめながらも品のある石造りで、重厚な木の扉を押し開けると、すぐに香ばしい肉の香りと、優しく磨かれた木の温もりが迎えてくれる。


店内は広すぎず狭すぎず、温かみのある灯りが天井の装飾を静かに照らしていた。テーブルクロスは深い栗色で、要所には細やかな刺繍が施されている。壁には控えめに飾られた絵画と、古びたワイン棚が並んでおり、上流階級の客にも恥じぬ格式を持ちつつも、どこか肩の力が抜けるような落ち着きがあった。


この夜は特別に貸し切りで、他に客の姿はない。扉をくぐったその瞬間から、三人のための時間が始まっていた。


「焼き加減はいかがなさいますか?」


給仕が柔らかい声で尋ねると、イグナシウスが真っ先に応じた。


「限りなく生で。表面だけ火が通ってりゃいい」


一瞬、給仕の視線がイグナシウスを捉えるも、すぐに微笑みを取り戻し頷いた。

「かしこまりました。それではブルーでご用意いたします」


リウィアンは「ミディアムレアを」と穏やかに答え、エズレンもそれにならって焼き加減を告げた。


しばらくして運ばれてきたのは、芳ばしい香りをまとった肉料理の数々だった。焼き石の上で供されたそれは、部位によって絶妙に焼き分けられており、照りのある肉汁がナイフの一筋で静かに溢れ出す。


「うおぉ……この肉、最高だな!」


イグナシウスが目を輝かせ、勢いよくナイフとフォークを握る。その動きはまるで獣のように本能的で、分厚い肉を一切れ口に含むと、赤ワインをひと口含みながら天井を仰いだ。


「これが報酬なら、まあ悪くねえな」


思いきり頬張る様子と、粗野な言葉遣いとは裏腹に、彼の手元は驚くほど美しかった。

ナイフの角度、フォークの持ち方、手首の柔らかな動き──流れるような所作はどれも完璧なテーブルマナーに則っており、ナプキンの扱い一つさえも隙がない。


(……え?)


エズレンは、肉の焼き加減よりもそのギャップに小さく目を見開いた。

さっきまで市場で瓶を振り回していたのと同じ人物とは思えない。がっつくようで、どこか計算されたその食べ方。その違和感に目を奪われたまま、エズレンは思わず手に持ったナイフを止めた。


「どうした? 食わねぇのか?」

イグナシウスが不思議そうに首を傾げる。


「……いや、その……すごく上手いんだな、食べ方が」

「ん?あー…実家じゃ周りがうるさかったからな、こういうの」


言いながら、気にする様子もなく次の肉に手を伸ばすイグナシウス。その自然体に、エズレンはさらに言葉を失った。


リウィアンは隣で静かにナイフを動かしていた。彼の所作はまさに絵画のようで、すべてが溶け込むように優雅だ。まるで、そうあるべくして生まれた者のように。


そして、そのふたりと同じテーブルを囲んでいる自分がいることに、エズレンはまた少しだけ、不思議な感情を抱いていた。





食後、街の灯りが淡く揺れる頃。夜風が柔く吹き抜ける、宿への帰り道。


「そういえば、そろそろ宿を変えるか?個室があるとこにでも」


イグナシウスが何気なく口にする。


「賛成。少し静かな場所のほうが落ち着くかも」


リウィアンも軽く頷く。


「……別に、今のままでもいいけどな」


エズレンの声に、二人の足が止まる。


「もう少ししたら、僕は神聖国家アルヴェーアに向けて出発する予定だから」

「「はぁ?!」」


声が重なり、道の静けさに響く。エズレンは肩を竦めた。


「僕はその時まで今の宿にいるつもりだけど、二人はまだこの街に残るだろ?」


淡々としたその口調に、イグナシウスは呆れたように鼻を鳴らし、リウィアンは肩をすくめて苦笑した。


「ったくお前は……そういうとこなんだよな。で、出発はいつなんだ?」

「え?」

「それって、僕らは一緒に行かない前提なんだ?」


リウィアンが言葉を挟む。


「エズレンって、変なとこで僕らに一線引くよね。もしかして、一緒にいるのって迷惑?」

「そんなことはない!」


慌てて否定したために、思わず声が大きくなる。


「……なら決まり」


リウィアンがふわりと笑った。


「アルヴェーアかぁ、久しぶりだなぁ」

「お前、あそこに行ったことあるのか?」

「うん。イグと出会うより、もっと前にね」


軽口の応酬を聞きながら、エズレンは再び昼間の疑問を思い出していた。


(二人は、どうして僕についてきてくれるんだろう……?)


「おーい、エズレン?置いてくぞ?」

「……なんでも」

「ないわけないだろ」


イグナシウスの鋭い声に、エズレンは思わず息を呑む。


「お前、昼間の市場でもどっか様子変だったぞ。気づいてないとでも思ったか?」

「イグが人の心配なんて……僕にはそんなこと言ってくれたことないのに!」

「茶化すな、リウ」


イグナシウスはぶっきらぼうに吐き捨てるように言い、リウィアンはそれを微笑みながら見ていた。


「……どうして二人は、僕についてくるんだろうって」


エズレンは小さな声で答える。


「僕は、二人のことを何も知らない。これまでどんな人生を送ってきたのか、どうして旅をしてるのか……知らないままだけど、それでも……二人と過ごす時間は、楽しいと思うんだ」


沈黙が訪れた。しばしののち、イグナシウスが呆れたように鼻を鳴らす。


「お前な……よくそんな小っ恥ずかしいことを真顔で言えるな」

「エズレン、僕らはもう“友達”でしょ?」


リウィアンが優しく言う。


「友達と一緒にいるのに、理由なんている?」

「友達……」


胸の奥がじんわりと熱くなる。

言葉ではうまく表せないその感覚に、エズレンは思わず目を伏せた。


「細けぇことはいいんだよ」


イグナシウスが笑いながら続けた。


「俺らは当てど無き放人。今はお前に流されてやってる。それだけだ」


その言葉に、エズレンは不思議そうに目を瞬かせた。そして、ゆっくりと頷く。


「……ありがとう。イグナシウス、リウィアン」


ふと、冷たい風が通り過ぎた。だが、今のエズレンの心には確かにぬくもりが灯っていた。


誰かの隣を歩く心地よさ。

寄り添い、笑い合い、未来を語り合うという、かつて知らなかったかけがえのない時間。


──それを過ごす関係を、“友”と呼ぶのだと、ようやく理解できた気がした。

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