第18話 追憶と探究
時は少し遡る。
広場での騒動が収束し、雷鳴の余韻がまだ空気に滲む頃——領主は数人の騎士を従え、静かにその場へと足を踏み入れた。
焦げた石畳の上には、雷の痕跡がくっきりと刻まれ、魔力の残滓が淡い燐光となって漂っている。その中には、精霊の足跡とも取れる歪な波紋が幾重にも重なり、不可視の存在が確かにそこにいたことを物語っていた。
領主は無言でその様を見つめ、細めた目の奥に冷静な光を宿す。静寂の中、彼の脳裏では過去の記憶が掘り起こされていた。
(精霊が人間に従うこと自体、極めて稀な事。それが雷霆の精霊ともなれば、単なる力の強さではなく、根源的な気質の問題だ…そのような存在が、本当にこの場で力を振るったのか?)
「……なるほど。確かに尋常ではないな」
呟くように言った言葉に、家臣の一人が頷く。
「はい。報告によれば、騒動の最中、突如雷霆の精霊が顕現し、暴走しかけたと。しかし一人の少年の意思により、最終的には鎮められたとのこと」
「目撃者の証言では、その少年が精霊を諭したようですが……実際に言葉を聞いた者がいないため、詳細は不明です」
領主の眉がわずかに動いた。雷霆の精霊は、並の魔術師が簡単に制御できる存在ではない。ましてや、暴走しかけた精霊を説得し、収めるなど——それは理屈の通る話ではなかった。
「信じられん……。精霊が、人間の言葉に応じたというのか……?」
ふと、冷たい風が広場を吹き抜ける。魔力の名残を孕んだ風が、かすかに雷鳴の匂いを運んだ。領主はその場に残る気配を感じ取りながら、再び沈黙する。
(まるで、彼らが“主”を守るために動いたかのように——)
その考えに至った瞬間、彼は内心で自らを戒めた。軽々しく結論を下すべきではない。だが、事実として精霊はこの場に現れ、そして——何者かの意志によって収められた。
「……この件、さらに調査が必要だな」
領主の声には、もはや驚愕や疑念を通り越した、確信めいた重みがあった。
◆
そして現在――
静寂が支配する書架の海を、エズレンは再び慎重に歩いていた。禁書区画の空気は他とは明らかに異なる。
空間全体が魔法に包まれ、かすかに肌を撫でるような魔力の流れを感じる。灯されたランプの淡い光が、厳重な封印が施された古書の背表紙に影を落としていた。
彼はゆっくりと書架を進みながら、脳裏に浮かぶ大司教との会話を思い出す。
ーーー
「本を閲覧する許可は出す。だが、一つ忠告しておくぞ」
禁書区画へと向かう回廊で、大司教は厳かな声で言った。
「その本が禁書に指定されている理由は、ただ内容の問題ではない。あの本には強力な魔法が仕掛けられているのだ。彼女によって読める者を選別する魔法がな」
足を止めると、大司教はエズレンを真っ直ぐに見つめた。
「無理やり開こうとすれば、どんな魔法返しを喰らうか分からん。彼女の死後、数十年経った今もその魔法は解けていない。それほどの力だということを、ゆめゆめ忘れるな――」
ーーー
大司教の忠告を反芻しながら、エズレンは目的の棚に辿り着いた。
古びた革装丁の書物が、ひっそりと収められている。背表紙には、静かにその名が刻まれていた。
「『Elaris' Chronicle (エラリスの年代記)』」
その文字を口にした瞬間、懐に微かな熱を感じた。そっと手を添えると、母のペンダントが淡く輝いている。若草色の石が、鼓動のように微細な光を放っていた。
エズレンはゆっくりと指で背表紙をなぞる。すると、書物の表紙に描かれた扉の輪郭が、かすかに揺らめく。ペンダントに呼応するかのように、淡い光が脈動し始めた。
絡み合う草花と蔦が解け、扉がゆっくりと開く。小窓一つ存在しない空間に、懐かしい香りの風が吹く。同時に、扉の向こうから銀の文字が浮かび上がる。
――【Welcome home】
エズレンの胸が、静かに波立った。
手の中の書が、静かに開かれる。 そこにあった美しく流れる筆致の文字が、視界に飛び込んできた。エズレンは慎重に指で文字をなぞり、ページをめくっていく。
「これは……母さんの日記……?」
ほとんどは、他愛のない日常の記録だった。しかし、とあるページに辿り着いた時、これまでと違う雰囲気を感じた。インクの色が微妙に変わり、優美な筆跡がところどころ歪んでいる。
——今日、私はとある御方に見初められたらしい。――
目が、その一文に釘付けになった。鼓動が一瞬遅れる。読み進める指先が、わずかに震えた。
——“円環の儀式”を受けた。そこで出会ったあの御方は、私に告げた。『お前は我がものとなる宿命だ』と。——
“円環の儀式”。十柱の主神の中から一柱を選び、与えられる試練を乗り越えることで「真名」を得る儀式。稀に神がその者へ加護を授けることもある。
(母さんは、儀式でヴェラティア様の加護を受けた。けど、それだけじゃなかった…?)
この“とある御方”というのが、僕の実父なのだろうか。今思えばゼスと暮らしていた間、何となく実の両親の話題は出さなかった。物心着いた時からゼスと二人だったので、あまり気にしたこともなかった。
(ゼスは母さんについては教えてくれたけど…)
エズレンは更に読み進めていく。
——けれど、私はそれを受け入れることはできなかった。なぜなら…………………——
――『お前の………る時、……迎えに……』――
しかしそこから先の文章は、何度も書き直され、最後には無理に塗りつぶされたように、読めなくなっていた。
ふと思い立ち、書架の棚にかけてあるランプの灯火に、そのページを透かしてみる。かろうじて読める単語に目を留める。
——『神託の書』——
(何のことだ…? 後で大司教様に聞いてみよう)
静寂が支配する書架の間で、彼はそっと本を閉じた。
(……もっと沢山のことを知る必要がある)
胸の奥に、小さな波紋が広がるのを感じながら。
本を棚に戻した瞬間、表紙の扉には草花と蔦が絡まり、再び堅く閉じられたのだろう事が分かった。
その光景を暫し眺めていると、背後から落ち着いた声が響く。
「……あの本は、読めたか」
振り返ると、大司教が立っていた。
「はい。あれは、母の日記でした」
「エラリス様の…そうだったか」
エズレンは先ほど浮かんだ疑問を口にする。
「大司教様、“神託の書”とはなんでしょうか」
大司教は眉を寄せ、しばし思案するように沈黙した。
「…アルヴェーアの中央神殿に存在する、主神からの御言葉を綴った書だ。神の使いの御言葉を聞くことが出来るのは、加護を賜った大聖女か枢機卿のみ。書の閲覧権限も同様だが…それがどうした」
エズレンは本棚を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「…中央神殿……」
(もし、そこに母さんが拒んだ何かが記されているのなら…)
確かめる方法を、探さなければ。
母が何を選び、何を拒んだのか。
そして、その選択がどんな意味を持っていたのか。
今はまだ、その答えを知ることは出来ない。
◆
禁書区画を出ると、そこに静かに佇む影があった。
いつからそこにいたのだろうか。威厳に満ちたその姿に、エズレンは瞬時に相手を悟る。
「……君が、先日広場に顕現した雷霆の精霊を従えているというのは、本当か?」
低く響く声に、エズレンは一瞬答えを迷った。しかし、隠し事は許さないという鋭い視線に、正直に頷く。
「……はい」
領主はその言葉に目を細め、ゆっくりと頷いた。
「雷霆の精霊は、ただの魔物とは違う。誇り高き彼らが従うのは、己が認めた主のみ。それがどれほどの意味を持つのか、君は理解しているか?」
エズレンは答えなかった。だが、その静かな瞳の奥にわずかな動揺が滲む。
領主は一歩前へ進み、改めて少年を見据えた。
「我がイストリア家は代々、雷神を信仰してきた。しかしながら、これまで歴代当主の誰一人として加護を受けた者もいなければ、雷霆の精霊と契約した者もいない。それは、我が家の長年の悩みの種だった」
その言葉の裏にある意図を悟りながらも、エズレンは静かに立っていた。
「君は、大賢者ゼスの縁者であり、大聖女エラリスの血を継ぐ者だったか」
言葉の裏にある意図を悟りながらも、エズレンは静かに立っていた。
領主の声が一瞬、わずかに沈む。
「もし君が、我がイストリア家の者であったなら……いや、今はやめておこう」
領主はふっと笑みを浮かべると、話を打ち切るように言った。
「さて、君の求めていた本はもういいのか?」
エズレンはほんの一瞬の間を置いて答える。
「はい。ですが、僕の求めている答えには辿り着けませんでした」
それ以上語らず、ただ視線を向ける。
領主は低く呟いた。
「そうか。では、君はこれからどうするんだ?」
その問いに、エズレンはふと顔を上げた。
「神聖国家アルヴェーアの中央神殿に行ってみようと思います」
一瞬の沈黙が落ちる。
隣にいた大司教が、驚いたように眉を寄せた。
「まさか……中央神殿には所属している者しか立ち入ることができないのだぞ」
すると、領主が微かに口元を緩める。
「そうでもないだろう。少年、円環の儀式については?」
「……!」
エズレンの脳裏に、先ほどまで読んでいた書の記述が蘇る。
「…存在を知っているだけで、受けたことはありません」
領主は満足げに頷いた。
「ならば好都合だ。中央神殿で行われる儀式に参加することができれば、そのために神殿へ立ち入ることが許される」
「参加することができれば、でしょう?」
大司教は渋い顔で呟いた。
「……良いか、少年。あの国の中央神殿では、他国よりも特に厳しく参加者を選別している。そこで受けることすら困難なのだ」
「雷霆の精霊を従えるこの少年を、中央神殿が参加資格なしと判断すると思うか? 大司教殿」
領主の問いに、大司教は押し黙る。
エズレンは静かに息を吐き、決意を固めた。
——円環の儀式を受ける。それが、今の自分に与えられた、唯一の手がかりだ。
◆
エズレンが宿へ帰った後。
執務室に戻った領主は、ふっと笑みを零した。
大司教が訝しげに顔を上げる。
「……何か?」
「いや? ただ、珍しいと思ってな」
「……なかなか稀有な少年です。その血筋も…背負うものも」
「私が言ったのは、大司教殿のことさ」
「……はい?」
領主は肩をすくめる。
「そこまであの少年が心配ならば、大司教殿が推薦状を書いてやればよいものを、教えなかっただろう?珍しく、意地の悪いことだ」
大司教は苦笑し、静かに目を閉じた。
「……いえ。ただ、あの少年は自分が何者であるかを探しているような気がしましてな。その機会を奪うのは、彼自身のためにならないのでは、と」
領主はしばし沈黙し、それから小さく笑った。
「なるほど?偉く気に入ったようだな」
大司教は応えず、ただ手元の書を閉じる。
古びた羊皮紙の表紙に刻まれた紋章が、燭台の揺れる炎にかすかに光った。
窓の外では、夜風が静かに流れ、まるで何かが始まる前触れを伝えるかのように、空気が少しだけ変わった気がした。




